ぼくらは夜のいきもの

最近はずっと雨が夕方辺りまで降っていて、今日もまた、湿度はむんむん気圧はひくひく髪の毛もじゃもじゃといった具合。

6月の気圧の低い日は、ほんらいはサンショウウオみたいに這って生活するべきなのに、無理をして、立って歩いてるんじゃないのか。そりゃ無理もするか、だって直立二足歩行はとっても進みやすいし、街の中で一人ぼっちのそのそと進むには、地面は固すぎるし、周りの目だって気になるし、講義に遅刻しちゃうかもしれないからね。

 

今日もまるで昨日みたいに、あと6時間くらいしたら夜が来るんだろうな。じゃあ今日も昨日と同じように、夜になって雨がやんで目が慣れてきた頃に、「ぼくたちは夜を求めて太陽の中で過ごしている、それなりに我慢強いイキモノだ」なんて、考えるんだろうか。ぼくはいつも、夜になって初めて、落ち着きとか、確かさとか、きちんとした重さで、少しだけ、感じられるように思うんだ。ちょっと感覚的すぎるかもだけどさ。

 

朝が怖いって思うときは、もしかしたら疲れちゃっているのかもしれない。人と会うこととか、何かをすることとかに。

でも、「そんな言い訳してないで」ってたくさんの人が言ってくれる、そんなような優しさをこの世界は、今はまだ持っているみたい。それでも少しこんな天気が続いただけで、こんなにも、どこかへいきたくなってしまう。すみません、少しだけ期待させるようなことをおこなってしまって。

 

ぼくは魔女と出会って、昼間だけサンショウウオになる魔法をかけてもらうんだ。すごい突飛な比喩だけど、わりとそのまま真面目にさ、そればっかりがぼくの夢なんだ。

ジムとのかくれんぼ

 ジムはとても優しい子です。わからない人にはわからないかもしれないけれど。彼の優しさは、ものすごく純粋なものだから、大声で思っていることをすぐに口にしてしまったり、何かにいつも焦っているような人には、うまく感じることができません。だから他ならぬこのわたしも、最近まで彼の優しさを、忘れてしまっていたような気がします。

 ふと、「ひとりぼっちかもしれない」と思うとき、まるで帰り道のわからなくなってしまった草食動物みたいに、いいようのないむなしさの中に囲まれて、何もできずに佇む日が、人生の中で、それなりにあるような気がします。

 例えばそんな日に、ジムのつくった「ことばのない絵本」を開くと、真ん中より少し後のページに、深い森の中で、女の子が灰色の一角獣にもたれかかって寝ている一枚があって、わたしはその絵を見るたびに、思わず「よかった。」と、何か心が内側から暖かくなるような、そんな気持ちになるのです。

 ジムは星座の名前を言えないけれど、そのかわり、誰よりも星の光を感じることができて、だからこそ、美しさをとどめたままで、命を燃やし続けられるのだと思います。それこそまるで、遠くに燃える星のように。

 

 そうそう、ジムのお母さんもまた、とても優しい人です。お風呂からあがったジムに、毎日「早く寝なさい」と言ってくれます。お母さんはジムがこっそりと枕元で本を読んでいるのに、実は気づいているのです。

 ジムは布団で枕元の明かりを隠すようにおおって、布団の中で絵本を見るのが大好きでした。布団の中はどんどん熱くなってしまうので、一定時間ごとにバサバサと布団の中の空気を外に出す必要があります。明かりがその度に洩れているのをジムは気づいているのでしょうか。いいえ、多分気付いていないでしょう。なんで毎日お母さんが「早く寝なさい」と、何かを含ませるように言っているのか、理由に気づくにはまだ少し時間がかかりそうです。

 

 私たちが「明日はジムと会おう」と計画を立てて、意気揚々と街に出ても、彼とは決して会えません。彼は、計画、とか、時間通り、の世界にはいないのです。私たちが普段便利だと思って使っている「時間」は、彼とは無縁の場所にあって、ジムは、私たちには、ゆっくりすぎるように見えるカメと一緒に歩いて、時間の領域の外へ出てしまっているのです。彼と彼のお母さんの住む家は、大潮のときだけ現れる孤島への一本道みたいに、心に豊かなものがある時だけ、裏通りの片隅に現れます。ずっとあったみたいな感じで、ひょっこりと。

 

 普段歩いている道に潜んでいるたくさんの生き物のことを私たちが見つけられないように、きっと普段過ごしている中にも見つけられていない感情はたくさんあるのだと思います。「触れているけれど見えてないもの」というのがきっと至る所にあって、それは毎日のケチケチした時間の中で擦りきれるようにいなくなろうとしている。

 もしかしたら「触れているけれど見えてないもの」に気付けた時に、自分で独り占めをしようなんて思わずに、もっと大声で伝えてみれば、あの日一緒に遊んだジムと、もう一度会えるかもしれません。

 ジムとのかくれんぼはずっと続くのでしょう。わたしはふとした時に、彼のお茶目な帽子のつばが木から飛び出ているのを認めたりしたら、あたりも気にせず大声で、「みいつけた!」と、叫ぶことにします。

 ひょっこりと現れた彼は、きっと笑っていて、そんな時に、心の内側をじんわりと温めるものが、きっと、なによりの…。

井の頭公園13:30

人は分かりやすくするための決めごとを長年かけて作ってきた。けれど自然は自然と混沌としていて、そんなものの中に、分かりやすく線を引いた分だけ、世界は矛盾だらけになってしまった。

蔓延する矛盾と自分との折り合いをつけていくことがアイデンテイテイの確立とかオトナへの一歩とか、そういう言葉で表されるとするなら、「早熟」こそ最高の褒め言葉であって、僕らは一刻も早く「大人びてるねぇ」の名の下に、世界の矛盾に対して個人的な感慨を巡らせては、周りから変人と謳われながら人間として価値のある今世を守る必要があるのだろう。一週目、二週目、三週目、と矛盾を回りながら。

 

そんなことを邪悪な科学者をしている友人のブログから徒然なるままに考えるくらいには今よくわからない時間を過ごしている。

高円寺で土地の神をしている友人の自転車を停めていた駐輪場から過剰な請求額を言われてしぶしぶ野口を失った挙句両輪パンクしている友人のそれを自転車屋で直してもらっているところだけれど、多分あれはチューブごと取り替えることになるくらいボロボロだったから5000円弱かかるのだろう。大体僕が終電で帰るというのを力で阻止して自分の自転車で帰れと家まで連れて行った挙句自転車が両輪パンクしていてそれでも徒歩よりはマシだと両輪パンクしたそれで吉祥寺まで午前2時半の街を走らせる奴を僕は友人とは呼びたくない。「僕なりの愛ですよ」ともしかしたら言うのかもしれないけれど。僕が図書館でエターナルシュレッダーをして稼いだお金は一体どうしてこんな風にして、とまあ、友人からパンクのお金は貰うけれども、使い果たされてしまうのだろうと思うし、一体どうしてこんな風な足止めを僕はくらっているのだろう。といっても僕がこれから何をしにいくのかといえば、ロマンティック・リアリストとの打ち合わせと言う名の暇つぶしであって、これもまた無駄な浪費と世間に言われたりするらしい。

 

14時には修理が終わるとのことで、井の頭公園のベンチに座っていると、何かの幼虫がまさに蛹になりかけているところで、あれ、この虫の名前はなんていうんだっけと、そんなことを思う。

土地の神からは返信がこなくて、彼の家なんてどこにあるのか完璧に忘れているから、やもするとあの自転車は高円寺の名前のない神社に放っておくのが良いかと思う。適当に処分して欲しいし、なんなら長ったらしい祭事にでも活用して欲しい。

 

それにしても忙しいという言葉とは随分遠くに来たつもりがしていたのに、あいも変わらず、誰かに嫌われながらも、誰かのために忙しくなることを拒めないようで、そんな自分の部分を一概に短所だとは思わないけれど、どうもこうもどかしい。科学者や土地の神や或いはロマンティック・リアリストとの、時間と金だけが意味も価値も何もなく消えていく、全世界的に見て堕落していくばかりの毎日があって初めて、僕の人生もそれなりに面白いのかもしれないと、思えたりするからだ。

いや、彼らは間違いなくある種の悪魔であるとぼくは断言してはばからないけれども

エターナルシュレッダー中のメモ

愛の教科書がもしあったら、きっと中身を冷めた笑いでパラパラ見ながら、結局は破いて捨てる気がするけれど、それでも「これが恋だ」とか、「それが愛だよ」とか、そんな風に、自分の気持ちを整理したくなる人はたくさんいるだろうから、やっぱりどこかで、そういった指南書を求めているようにも思う。

 

言葉には二種類あって、そのうち一種類が90パーセント以上を占めている気がする。それというのは区切るという役割を持った言葉で、混沌とした何かを、きっちりとした囲いの中に入れ込んで、人に伝わるようにしてくれるものだ。頭のいいと言われる人がたくさんいるけれど、そういう人は基本的に、言葉という囲いを作るのが上手くて、人にきちんと言葉を伝えられる人だったりする。

もう一種類ははっきりとしないものなんだけれど、いうならば、芸術表現としての言葉というようなものである。この世界のごく少数の人は、言葉を使うことによって、意味を広げていく、囲いを溶かしていく、或いは、どんな事をしても届かなかった曖昧な場所に通ずる道を作ることができる。上手く言えないけれど、本物の作家や詩人はそんな風にして、言葉を、なにかを決めるためでなく、音や絵の具と同じように、なにかを広げ、深めるために使うことができる。

 

僕は正直なところ、狂おしいくらい後者の言葉を使う人間になりたいし、今世はそのために使いきってしまいたいと(決して格好付けとかではなく、一種の諦めとして)思っているから、やっぱり「これは恋だ」なんて、なにかを決めつけるように、混沌とした人への想いを整理してしまいたくはないと思う。

 

愛の教科書は絶対に、実在はしなくともイメージとして存在していて、まるで書かれている順序で結婚というゴールに向かうために、僕らの恋愛は消費されているような気がします。

イニシエーション・ラブ」という小説があるように、結婚への、通過儀礼(イニシエーション)として複数の人とお付き合いする経験があるんだ、なんて、心のどこかでやっぱり20歳の若者として思ってしまう節があるし、一生の愛を誓うよ、なんてセリフを今の僕が言おうものなら風にのってアメリカくらいまで飛んでいってしまうくらいには重さがないのは確かで。

 

いまこういう中3みたいなことを考えているというのが、一番大切なのかもしれない、というか、それだけが少し意味のあることなのかもしれないけれども。

バイトでずっと無心にシュレッダーをかけながら、ぼんやりと考えることにしては、随分と明るくて、5月も終わりだから?なんて、ヘタな芝居をうってみる。

 

できるだけ真っ直ぐなうそ

 例えば君とどこまでも遠くまで歩いて行けるとして

 僕らのたどり着く街が、ずっと昔から願っている

 優しさと想像力に満ちた場所だとしたら

 そしたらいっそ、僕らはその場所からはぐれるようにして

 またこの場所に戻ってくるのかもしれないし

 もしかしたらずっと、その場所で、今世を終えるのかもしれないけれど

 

 例えばなんとなく好きな音楽が、遠い向こうから聞こえてきたときに

 もしかしたら知らない国の誰かが、奏でているのかもしれないと

 信じてそこに向かうとして

 僕らはきっと、その道中を、まるで子供みたいに

 心から不安に思いながら

 それでもまるで子供みたいに

 はしゃぎまわるだろうから

 

 例えば夢に見た風景へと僕らが向かっているとして

 全ての道中が憂鬱に満たされているとしても

 生きている限りバッドエンドがないように

 向かっている限り、きっと、続いていくものがあって

 だからこそ僕らは、この街で生まれたのだと思うし

 だからこそ僕らは温め合うように、ひとりを時折忘れられる

 もしかしたら、きっと。 

Sea and The Darkness Ⅱ

 黙ってても生きていける僕らは、何故そうまでして言葉を交わすのだろう
 何故文字を書くのだろう。音を鳴らし、絵を描き、体を揺らすのだろう
 義務でもないのに、何かを伝えようとするのはなぜだろう

 どうしようもなく不揃いな僕たちは、闇の中で形を溶かす
 世界中の影が、そんな風にして一つになる
 僕らはそれを夜と呼んで、ひそかに愛し続けてきた

 けれど世の中には夜を渡ってくるものがある
 日差しが僕らを照らしてくる、形の違いを浮き彫りにする

 そんな時に、耐えられずに、目が眩んでなにも見えなくなってしまう人々は
 どんな風に生きればいいのだろう
 日差しの中で、全てが見えなくなってしまった

 けれどそんな時に、心の一番奥に、暗闇を残し続けている人々のそばには
   ささやかな闇がきっとあるはずだ

 自分の一番深い憂鬱は、きっと世界全部が一つに溶けていた、闇の中につながっている
 僕らは日差しの中に投げ出されながらも、自分の持つささやかな暗闇を盲目的に守り続けていく
 その中で言葉を交わすのだ。何かを伝えようとするのだ
 「不揃い」が許されるあの場所の、全てが溶けていたあの場所の、
 深い深い海と闇を想いながら、文字を書いていくのだ

 

嵐のあとで/Aftermath

 「ばいばい」
「ばいばい」遠くなった君が振り返らずに帰っていく様を、僕は今でも、鮮明にとは言えないけれど、印象深く思い出すことができる。

 夏はいつの間にかもう、すぐ近くにあるらしい。やがて梅雨が訪れて、それが去ってゆけば、あの日みたいな夏が来るのだろう。

 あの夏、炎天下の中でぽっかりと穴が空いたように、たった1日だけ絵に描いたような嵐が街を襲って、閉じこめられた体育館から、二人して逃げ出したね。教室の窓を全開にして、びしょ濡れになった同級生たちのノートと、荒れ狂う水色のカーテンの中で気持ちよさそうに笑いながら、君はなんて言ったんだっけ。

 空の上がる前に、夢の続くうちに、君は何かを壊そうと必死だったね。ぼくは君の露のしたたる前髪と、ぎゅっとしぼった時にできたスカートのしわを、今でもまだ思い出す。

 突然上がっていった嵐は言いようのないほど素晴らしい、現実味のない太陽を連れてきて、逃げるように避けていた嵐の終わりに、何故か二人して抱き合って泣いてしまった。冷たく濡れた肌の中で、君のこぼした涙だけが、ほのかに暖かくて、僕は本当に命は終わってしまうんだということを、あの時鮮明に感じたような気がする。

 よく笑う人だった。笑顔だけで世界は優しいつながりの中で成り立っていけるのだと、信じているような笑みだった。あの時君は、なんて言ったんだっけ。

「あのさ」
「なに」
「……」そうか、君は黙ったままで、濡れた髪をいじりながら、明るくなった空を見上げていた。心底楽しそうに、まるで何かが今しがた、始まったかのように。