おとなになる前に1

 君の鼻歌はそんな風なんだな。初めて聞いた。喉から鼻へ、まるで何かの魔法みたいに濾過された湿気のない声が、透き通って外に生まれるんだね。
 三歩ばかり先へ行く君が少しばかり怒っているような気がするのは、多分、自分が一番大事な僕の、変にわるい癖だ。
 「あとどれくらい居ていいの?」どこまでも無邪気に振り向く彼女はどうしたってスターになんかなれなくて、その代わり、いつだってどうしようもない「普通」を静かに向かい入れながら、それに逆らうなんて自分にはできないって悟っている。そして実際に、君の見ている世界にはきっと、そんな力は必要ないんだ。悲しいことのように聞こえるけれど、それは確かさのある、人間らしい誠実さがそうさせているんだと思う。
「日が暮れたら帰ろうか」君の三歩後ろにいるのは、そんな風に綺麗そうな事を呟いてスマートフォンを開く僕だ。
「もっと暗くなってから、お互いの顔がみえなくなったらにしようよ」と楽しそうに、手をつなごう、と差し出された左手は、手首の上まで白いカーディガンがかかっていて。
 やがて夜が来る。帰り道の途中まで僕らは、今日ばかりは二人きりだ。自分の時間を忘れることもなく、僕はなんとなく昨日読んだ本の続きだとか、先に控えている脚本のこととかを考えている。僕の渇いたテンションの空白を埋めるみたいに、君は今日の日を、僕の隣で、精一杯に楽しんでいるみたい。
 君は明日からスーツを着て、一年くらいは人の印象ばかり気にする訓練を受けて、どうにか一人でやっていけるような力を手に入れるのだろう。それは普通のことだって、いうかもしれないけれどさ、そうやって大学四年生になる君が、まるで大学四年生みたいに、スーツを着てどこかの会社に向かうなんて、本当にすごいことなんだよ。
 それを僕は心から、羨ましいとかそういう「自分と比べて」の感情じゃなくてさ、すごいな、と思うし、心から応援する。お互いうまくいくといいね。僕もぼちぼち頑張るから。
 とか思っていたらすぐに、お互いの顔は見えなくなってくる。夜に二人っきりでいたら駄目なんだ。僕は柄にもなく野性的に君を求めてしまうかもしれない。決して襲ったりはしないけれど、例えば自分から手をつなぐきっかけを作ってみたり、肩を少しばかり寄せてみたり。暗闇に乗じてそんな風になる自分が大嫌いなんだな。夜の下ろす暗闇はクールさへの麻薬だ。
 「ねえ、駅まで歩こうか」僕が言うと君は透き通った鼻歌で答える。そのメロディは誰の曲だったっけ。
 君ともう会うことはないんだろうな。ふとそんなことを思い立つと、電車が向こうを音を立てて通り過ぎ、君の鼻歌は聞こえづらくなった。