ジムとのかくれんぼ

 ジムはとても優しい子です。わからない人にはわからないかもしれないけれど。彼の優しさは、ものすごく純粋なものだから、大声で思っていることをすぐに口にしてしまったり、何かにいつも焦っているような人には、うまく感じることができません。だから他ならぬこのわたしも、最近まで彼の優しさを、忘れてしまっていたような気がします。

 ふと、「ひとりぼっちかもしれない」と思うとき、まるで帰り道のわからなくなってしまった草食動物みたいに、いいようのないむなしさの中に囲まれて、何もできずに佇む日が、人生の中で、それなりにあるような気がします。

 例えばそんな日に、ジムのつくった「ことばのない絵本」を開くと、真ん中より少し後のページに、深い森の中で、女の子が灰色の一角獣にもたれかかって寝ている一枚があって、わたしはその絵を見るたびに、思わず「よかった。」と、何か心が内側から暖かくなるような、そんな気持ちになるのです。

 ジムは星座の名前を言えないけれど、そのかわり、誰よりも星の光を感じることができて、だからこそ、美しさをとどめたままで、命を燃やし続けられるのだと思います。それこそまるで、遠くに燃える星のように。

 

 そうそう、ジムのお母さんもまた、とても優しい人です。お風呂からあがったジムに、毎日「早く寝なさい」と言ってくれます。お母さんはジムがこっそりと枕元で本を読んでいるのに、実は気づいているのです。

 ジムは布団で枕元の明かりを隠すようにおおって、布団の中で絵本を見るのが大好きでした。布団の中はどんどん熱くなってしまうので、一定時間ごとにバサバサと布団の中の空気を外に出す必要があります。明かりがその度に洩れているのをジムは気づいているのでしょうか。いいえ、多分気付いていないでしょう。なんで毎日お母さんが「早く寝なさい」と、何かを含ませるように言っているのか、理由に気づくにはまだ少し時間がかかりそうです。

 

 私たちが「明日はジムと会おう」と計画を立てて、意気揚々と街に出ても、彼とは決して会えません。彼は、計画、とか、時間通り、の世界にはいないのです。私たちが普段便利だと思って使っている「時間」は、彼とは無縁の場所にあって、ジムは、私たちには、ゆっくりすぎるように見えるカメと一緒に歩いて、時間の領域の外へ出てしまっているのです。彼と彼のお母さんの住む家は、大潮のときだけ現れる孤島への一本道みたいに、心に豊かなものがある時だけ、裏通りの片隅に現れます。ずっとあったみたいな感じで、ひょっこりと。

 

 普段歩いている道に潜んでいるたくさんの生き物のことを私たちが見つけられないように、きっと普段過ごしている中にも見つけられていない感情はたくさんあるのだと思います。「触れているけれど見えてないもの」というのがきっと至る所にあって、それは毎日のケチケチした時間の中で擦りきれるようにいなくなろうとしている。

 もしかしたら「触れているけれど見えてないもの」に気付けた時に、自分で独り占めをしようなんて思わずに、もっと大声で伝えてみれば、あの日一緒に遊んだジムと、もう一度会えるかもしれません。

 ジムとのかくれんぼはずっと続くのでしょう。わたしはふとした時に、彼のお茶目な帽子のつばが木から飛び出ているのを認めたりしたら、あたりも気にせず大声で、「みいつけた!」と、叫ぶことにします。

 ひょっこりと現れた彼は、きっと笑っていて、そんな時に、心の内側をじんわりと温めるものが、きっと、なによりの…。