フクラム国

タルイのブログです

エターナルシュレッダー中のメモ

愛の教科書がもしあったら、きっと中身を冷めた笑いでパラパラ見ながら、結局は破いて捨てる気がするけれど、それでも「これが恋だ」とか、「それが愛だよ」とか、そんな風に、自分の気持ちを整理したくなる人はたくさんいるだろうから、やっぱりどこかで、そういった指南書を求めているようにも思う。

 

言葉には二種類あって、そのうち一種類が90パーセント以上を占めている気がする。それというのは区切るという役割を持った言葉で、混沌とした何かを、きっちりとした囲いの中に入れ込んで、人に伝わるようにしてくれるものだ。頭のいいと言われる人がたくさんいるけれど、そういう人は基本的に、言葉という囲いを作るのが上手くて、人にきちんと言葉を伝えられる人だったりする。

もう一種類ははっきりとしないものなんだけれど、いうならば、芸術表現としての言葉というようなものである。この世界のごく少数の人は、言葉を使うことによって、意味を広げていく、囲いを溶かしていく、或いは、どんな事をしても届かなかった曖昧な場所に通ずる道を作ることができる。上手く言えないけれど、本物の作家や詩人はそんな風にして、言葉を、なにかを決めるためでなく、音や絵の具と同じように、なにかを広げ、深めるために使うことができる。

 

僕は正直なところ、狂おしいくらい後者の言葉を使う人間になりたいし、今世はそのために使いきってしまいたいと(決して格好付けとかではなく、一種の諦めとして)思っているから、やっぱり「これは恋だ」なんて、なにかを決めつけるように、混沌とした人への想いを整理してしまいたくはないと思う。

 

愛の教科書は絶対に、実在はしなくともイメージとして存在していて、まるで書かれている順序で結婚というゴールに向かうために、僕らの恋愛は消費されているような気がします。

イニシエーション・ラブ」という小説があるように、結婚への、通過儀礼(イニシエーション)として複数の人とお付き合いする経験があるんだ、なんて、心のどこかでやっぱり20歳の若者として思ってしまう節があるし、一生の愛を誓うよ、なんてセリフを今の僕が言おうものなら風にのってアメリカくらいまで飛んでいってしまうくらいには重さがないのは確かで。

 

いまこういう中3みたいなことを考えているというのが、一番大切なのかもしれない、というか、それだけが少し意味のあることなのかもしれないけれども。

バイトでずっと無心にシュレッダーをかけながら、ぼんやりと考えることにしては、随分と明るくて、5月も終わりだから?なんて、ヘタな芝居をうってみる。