飯倉さんの髪型

 

今週のお題「髪型」

 

 返ってきた英単語のテストは相も変わらず決して良くはなかったけれど、安西は不思議といい気分だった。その日は5月にしては珍しく晴れやかな天気だったし、何か普段はするはずのないこともできてしまいそうな気がして、安西は少し早足で次の授業がある教室へ向かう。

 そんな彼の前方から元気よく歩いてきた可愛らしい女の子が飯倉さんである。安西は飯倉さんの髪が随分と短くなっていることに気づく。腰くらいまであったはずの髪が、首のあたりでくるんとした、可愛らしいショートカットになっているではないか。

 「飯倉さん、おはよう。」安西がいうと、飯倉さんは少しばかりびっくりしたような顔で、「おはよう!安西くん」と答えた。

「なんかね、うん、ショートの方が似合ってるよ」安西は少しばかり勇気を出してそんな風に言ってみた。異性に対してこんな言葉を向けたのは初めてで、安西は少しばかり心が落ち着かなくなっているのを感じた。

 対する飯倉さんは困ったような顔をしている。

「そ、そうですかねぇ」

「うん、じゃあまた」もしかして、俺、少し失敗した?安西は後悔の念に追われながら、先ほどよりもさらに早足で次の授業に向かう。いい気分だった今日の日は突然どこかへ行ってしまって、代わりに赤点ギリギリの英単語のテストのことを今更ながら思い出した。飯倉さんに嫌われてしまっただろうか。

 しかし、その時安西はまだ、飯倉さんの困った顔の本当の訳を知らなかったのである。

 

〜〜三日前〜〜

 

「いーのちーみじーかしー、こーいせよーおーとめー」人気のない住宅街に透明な声が小さく聞こえている。飯倉さんは得意の散歩をしている最中であった。「……」続きの歌詞がわからない飯倉さんは、少し黙り込んだ後、うろ覚えのメロディーを「るーるるー」と歌いはじめたけれど、すぐに飽きてしまったようで、しばらくしてまた「いーのちーみじーかしー」と最初から歌い始めた。なんとも平和な午後のひと時である。

 何か面白いことが起きないものだろうか、そんなことを飯倉さんはぼうっと考える。どんなことでもいいから、明日から学校に行きたくなくなるような、面白いことが起こったりしないかなあ、なんて、ちょっぴりいけないことを考えては、一人くすくすと笑う。猫さんとか出てきたりしないのかな、私をどこかへ連れてってくれる太っちょの猫さん…

 飯倉さんがそんな他愛のないことを考えていたその時である。

 「ヒューーーー…!バサッ」

 飯倉さんの腰くらいまである髪の一部分が、バサリと、地面に落ちてしまったのである。釣り上げられていた荷物の糸を切ったみたいに、いきなり、ドスンと簡単に。

 「ひええええええ」閑静な住宅街で飯倉さんが叫んだ。

「ふっはっはっはっは」背後からは快活な笑い声。

「だれだ、そこにいるのはだれだ・・・!!!」飯倉さんは精一杯の勢いで振り返った。

 背後にはいかにも忍者らしき容貌をした男が仁王立ちで立っている。

「むむむ!?おまえはまさか・・・」飯倉さんは両手を前にかざしてまぶしそうな姿勢をとる。

「私は忍者だ」

「やっぱり!?」

「私は忍者である」

「そかあ、忍者かあ!」

「ふっはっはっは、思い知ったか、私の特性手裏剣の威力を!」忍者は再び快活に笑った。人差し指と中指にはさまれた手裏剣が太陽を反射してぎらりと光っている。どうやらそれを投げて飯倉さんの髪を切り落としたらしい。全く物騒な話である。

「私の髪をばっさりしたのはおまえか!」

「ふふ、そうだ、私だ」

「女の子にとって髪の毛は、何よりも大切なんだぞ!!」飯倉さんはどうやら相当怒っているらしく、人に向けてはいけないと教わってきた人差し指をピーンと忍者へと向けた。

「ふっはっはっは、ところで、おまえは髪を短くする時期を伺っていたな…?」

「・・・なぜそれを!!」不意を突かれた飯倉さんのピンと伸びた人差し指は思わずしなしなと力をなくしてしまう。

「ふっはっはっは、私は忍者だからだ」忍者は両手を腰に当てて大笑いした。随分と陽気な忍者である。

「そかあ、忍者すげえなあ」

「私が髪をきってやろう」ここで忍者の急な提案。

「本当か!?」なぜか飯倉さんは本当に嬉しそうである。

「ああ、私は忍者だからな」

「忍者すげえ、、、じゃあ、頼んだ!」こうして二人は歩み寄って、あろうことか握手を交わした。

 自然と人の周りには似た人が集まる、なんてことを言うけれど、飯倉さんの1日には今日もこんな風にして、この世界とは違うどこかから、よくもわからない誰かさんが介入してくるらしい。もしかしたら、僕たちがいつも見かけている飯倉さんに似た彼女もまた、この世界ではないどこかから来た、よくもわからない誰かさんとへんてこな一日を過ごしているのかもしれない。

 髪を切るために公園へ向かう途中、忍者は飯倉さんの口ずさむ歌に気持ちよさそうに聴き入っていた。飯倉さんはいい気になって、歌詞を忘れてしまった部分に、好きな言葉を当てはめて歌っている。忍者の口元は少しにやけていたけれど、それは単に飯倉さんの自作の歌詞のへんてこさに対する笑いというより、もっと複雑で、優しさのある微笑みだった。まるでずっと探していた何かについに巡り会えた時に、えくぼが自然と綻んでしまったみたいに。飯倉さんもまた横目でそんな忍者を見て何かを感じ取ったみたいで、自然な表情のまま、気持ちよさそうに笑っている。

 公園のベンチにたどり着いて飯倉さんが滑り台を駆け上がっている間に、忍者は変身の術を使ったのか、あっという間に丸メガネで髭を生やしボリューミーな髪型をした「美容師」へと成り代わっていた。ワックスがギンギラギンに前髪を固めている。ブランコで遊んでいた二人の子供たちは忍者と飯倉さんのことをなにやら好奇心に満ちた目で眺めていたけれど、すぐに飽きてしまったのか、また立ち漕ぎをしながら靴を飛ばす遊びに没頭し始めた。公園で髪を切ることも、忍者が変身することも、子供たちの世界では日常的に行われているみたいだ。

「うおお、忍者すごい変わったなあ!ちゃらいぞ。おまえ、本当に忍者なのか?」と飯倉さんがいうと

「にんにん」と照れたように答えるのだから忍者も可愛いものである。

「そうそう、大事なことを言い忘れていた」忍者は手際よくハサミを使いながら口を開いた。

「・・・?」飯倉さんは首をかしげようとするが、「ちょっと今は動かないで」と忍者に止められてしまう。

「これは夢だ」

「なんですと!?」飯倉さんは顔の位置を動かさないようにしながら、最大限の驚きを声で表す。

「正確には、夢のようなものだ」

「????」飯倉さんは顔の位置を動かさないようにしながら、精一杯困った表情をする。眉毛が中央に寄っておでこに滑稽なシワができていた。

「夢だと言われればそうだし、現実だと言われれば否定もできない。ここは、一時的に展開しているパラレルワールドみたいなところなのだ」

「ほおほお」これはよく分かってない時の飯倉さんの口癖である。

「つまり、君がいつも住んでいる世界と、軸がすこーしだけずれている」

「ほおほお、ほおほお」

「だから、ここで髪を切っても元の世界では長いままなのだ」

「な、なんですと!?」

「そう。さっき夢といったのはそういうわけ。君だって見も知らぬ忍者を名乗るおじさんに切られた髪で明日からまた学校に通いたくはないだろう」

「それは確かにです」

「しかーーーし」忍者は大きな声でそういうと、小さな声で「はい出来た」と飯倉さんに囁くようにいった。飯倉さんはそういった不意打ちに弱くて、少しびくっとしてしまう。僕から言わせてもらえば、こういうギャップを使いこなせる男というのは全くもっていけすかない奴であるからして実に憎たらしい。

「しかし、元の世界にも髪が短くなったように見える人がいる。それは、飯倉さんのことを常に想っている人、そう、ありていに言うなら、君のことを好きな人だ」

「は、はあ。でも、そしたら安心だと思うぞ」飯倉さんは優しく微笑んだ。

「どうして?」

「私のことを好きな人に、未だあったことがないもの。」

「だからっていないとは限らないじゃないか。」

「いないよ。」

「もしいたら、」

「もしいたら?」

「そしたら、仲良くしてあげて。」忍者はそう言ったかと思うと、すごい勢いで駆け出した。

「に、にんじゃーーーー!」飯倉さんはベンチから立つと全速力で追いかけたけれど、忍者の足はすこぶる速く、あっという間に見えなくなってしまう。飯倉さんは大きく息をしながら「全く、出会いも別れも唐突なやつだぜ」と格好良く呟く。忍者の背中が遠くなると同時に、飯倉さんの髪はまた、元の長さに戻っていった。公園にはもう園児たちの姿はなく、いつの間にか、飯倉さんただ1人になっていた。

「ちくしょう、忍者め、ちょっと格好いい風の言葉を残して去りやがってぇ」飯倉さんはそう怒った風にして、でもやっぱり少しして、にっこりと微笑んだ。

「あ、もうカラスが鳴いてるみたい。夜が来る前に、おうちに帰ろうっ」

 

〜〜再び今日〜〜

 

 「うん、じゃまた」そういって去っていった安西をぼうっと眺めながら、飯倉さんは「え、えらいことになったぞ…!」と呟いた。

 二人はどうなるのか、少しばかり気になってしまうけれど、飯倉さんと安西が付き合うなんて、そんなことは他ならぬ僕が許さない。

 次の授業は飯倉さんが一番ちんぷんかんぷんな数学で、暇を持て余した彼女は、何の気なしにノートの隅に「安西くん」と書いてみる。昔そんなような事をして恥ずかしくなる女の子を見たことがあって、自分もそんな風になれるかなぁ、と考えてのことである。

「…」しばらく経って、なにも起こらない自分の心臓に愛想を尽かしたのか、

「ほおほお」とさもわかったかのように、飯倉さんは間抜けな声を出した。