J.D.サリンジャーの無風状態

 真面目になる必要があるよ、なんてすんごい人が僕に言うんだ。

 今しかできないんだぞって、せっかく学生なんだからって言うんだ。

 

 ポケットに忍ばせた洋書は半分は格好付けのためのものだけれど、ぼうっと眺めていると時折浮かび上がる意味の子島にしがみつくようにして、僕はずる賢く、辞書より先に想像力の夢を見る。

 "See more glass"

 何かの合言葉みたいだ。世界をすり替えるための、意味を失うための、全ての感動を冷めた目で自覚するための。

 

 何かを掴んだ気がするときに、きっと神様はそれを取り上げて、「まだまだ元気じゃない。そんな余裕のある君にうってつけのものをあげよう」とか言って、僕が生まれたときからずっと唯一求めていたそれを背中に隠すと、代わりにどうしようもなくつまらない銀色のワニのおもちゃを投げて寄越すのだ。一直線で女性のスカートに噛みつきに行く特性を持った可愛らしい顔のワニは特注品で、足の細い20代後半で猫っぽい目をしたショートカット黒髪の知性的で柔和な声の女性を重点的に狙うはずだ。

 

"Did you see more glass?"

 

 今日も秋葉原のミルクスタンドには水鉄砲が売っていて、白濁としたその液体をたらふく充填して世界中を真っ白に染めあげる気なのか、老婆は陽気にそれを牛乳瓶とともに勧めている。もしかしたら神様もそれを望んでいるのかもしれない。

 

 「風がなけりゃ、ねえ船長。」耳元に流れるはっぴいえんど、僕は銀色のワニを解き放つ。老婆はこの日のために命を紡いできたと言わんばかりに、決死の剣幕でそれを打ち殺そうとする。ホームが真っ白に染まっていき、やがておびただしい牛乳の匂いが辺りを包み込むのだろう。

 「JR総武線秋葉原駅における牛乳事故のため運転を中止しております」これで高円寺のあいつは学校に来ないだろう。全くいい気味である。

 

 改札を降りると、空にはどうしようもないほどに沢山のバナナフィッシュが飛び交っていた。僕は洋書を開くとまた、ささやかに立ち現れる意味の子島にしがみつく。

 「〜するべき」という人の数だけ、僕はきっと、銀色のワニを持つことになる。今日も形のないものを信じ、全ての嘘を信頼し、高望みをなくし、性欲の厚着をして、バナナフィッシュの泳ぐ街を進んでいく。ここではないどこかから、はぐれないように。