あの街の演奏会

 寝る前にふと思い立って、机に積み上がる紙類を漁ると、直ぐにお目当てのものは見つかった。

「やっぱり今日みたいだ。どうも眠くならないし、いってみようか」独り言。一家は寝静まっていて、多分外からは、僕の部屋の窓だけが灯台みたいに見えていることだろう。

 少しばかりしっかりとした服装に着替える。余りにもしっかりとし過ぎていると「自分とは不釣り合いだ」という思いばかりで窮屈になってしまうし、逆に余りにも締まりがないと身体中にモワモワとした大気がくっついているみたいで居心地が悪い。

 窓からすり抜けるように外に出る。良かった。空タクシーはまだ深夜料金になってないようだった。コンサートホールは雲島の第二地区にあるようだから、そこまで時間はかからないだろう。

 チョキを挙げて空タクシーを呼ぶ。陸タクシーを呼ぶときはパーで、空タクシーはチョキ、海タクシーはグー。

 

 こんな時間に外に出るのは随分と久しぶりのような気がする。夜の街は大人達が不器用に子供に戻ろうとしているようで、少し気持ちが悪い。ネクタイを緩めただけで生き返ったつもりになるなんて、浅ましいと思う。泥だらけになる勇気すら、持ち合わせていないというのに。

 「どちらまで」タクシーの運転手が聞いてくる。

「雲島第二地区の3番地にあるホールまで」

「承知。」

 

 街明かりはキラキラと遠ざかっていく。舐めると冷たくて硬くて蜜の味がしそうな金色の光が十字型に広がっていて、うるうると輝いている。僕の家がだんだんと遠ざかっていく。抜け出してきた場所なのに、それがどことなく切ない。

 

 「着きましたよ」自動ドアが勢いよく開くと、夜風が入り込んできた。雲島は少しだけ空気が冷たかったけれど、ふわふわと熱を帯びた身体には、それくらいが丁度よい。

 チケット売り場には中性的なボーイが整った眉毛で座っていて、僕のくしゃくしゃのお金を骨董的な価値のある絵葉書のように丁重に扱うと、代わりに金色のチケットを渡してくれた。

「全席自由席です」ボーイの微笑みにこちらも軽くお辞儀をする。笑い方が丁寧で暖かい。

 ホールの各席にはコーヒーが置かれていて、お皿に載せられた銀色のスプーンの上には立方体の「星のかけら」がちょこんと載っていた。

 会場はほぼ満席だったけれど、そのうち人間は半分くらいで、他にはロボットや、森の動物たちや(僕の隣はアライグマだった)、影人がいた。僕はブザーが鳴るのに合わせて「星のかけら」をコーヒーに入れる。少しだけ冷めたコーヒーがまた湯気を出して、いい香りが辺りを包んだ。

 まもなく彼女が舞台に出てきた。学校でみる姿と随分と違うその姿に少しだけ動揺する。着ている服装は学校とは大して違わないけれど、何故かキラキラと輝いてみえた。舞台に立っているからかもしれないし、或いは、いつもだったら寝ている時間の出来事だからかもしれない。

 ピアニストは影人だった。彼女は月を向いて静寂から音が紡がれるのを待った。ホールには至る所に穴が空いていて、其処には音膜が張られている。音膜によって外の風がさらさらとホール内に入ってくるけれど、音響はしっかりと閉じ込められている。

 演奏会は神秘的な和音で始まった。彼女は異国の歌を歌った。静かに歩きながら、まるで月に語りかけるように。長い髪が後を追うように動いて、時折顔にかかる。それを耳にかけ直しながら、彼女は幼い子を叱るような表情をした。風はそれを喜んでまた髪を靡かせる。

 彼女は目を伏せる一瞬間に、或いは、少しだけ名残おしそうなフレーズの終わり方に、言いようのない気品を持っていた。まつ毛がキラキラと輝いて、瑠璃色のピアスと呼応する。その一瞬間に音楽は一層流れを持つ。僕は思わず目を細めて、うっとりとやられてしまう。

 でも多分、僕はずっと彼女とは話さないままで、学校から去ることになるのだろう。残念な気がしないでもないけれど、歌を歌う彼女をいつかまた遠くから見られれば、それで十分のように思う。

 

彼女が歌い終わると魔法が解けたようにロボットが手を叩いた。僕の心臓の音とそれはよく似ていて、内側からドクドクとよく聞こえた。

 

 影人が楽譜をめくった。彼女は夜風になびく髪を抑えながら月を見上げるようにして、次の曲の始まりを待つともなく待っている。……