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できるだけ真っ直ぐなうそ

タルイのブログです

歩道橋

 身の丈に合っていないリュックサックを大きく揺らしながら、他愛もない話を、どんな夜だって笑えるような話を、誰も傷つけないように、楽しそうに紡いでいるその姿にいつも、僕ばっかりが置いていかれるような気持ちになった。

 夏帆は多分生まれた時から不幸の星の子で、体の病のことも、家庭のことも、僕には身勝手なお節介を向けないようにすることしかできなかったけれど、いつだって何も考えさせないくらい、彼女は上手に笑うのだ。

 線路沿いには日の光がまだ少し残っていて、暮れていく橙色の中で、自転車をひく僕の前を彼女は歩いていた。白線の上でバランスをとりながら、長めのスカートを風になびかせている。

 明日になれば、きっとまたいつもと同じように、今日感じたことのすべてが大した感慨を残さずに消えていくのだろう。夏帆のことはニュースにも取り上げられず記録にも残らないで、ただ僕の要領の悪い頭の中で埋もれていくはずだ。悲しくないといえば嘘になるけれど、悲しいという言葉では捉えきれないノスタルジックな諦観がこの帰り道を支配していて、 どことなく不甲斐ない。

「歩道橋に登ろうよ」夏帆は前方を指差して言う。もう僕はただ従うほかない。

 歩道橋からは最後の夕陽が沈んでいくのが見える。あまりにもよく出来た夕方の風景。遠くには駅前だけ栄えた隣の駅が見えて、大きなデパートの看板が夕陽にやられて影になっている。

「すぐにぜんぶ、一瞬で消えてしまうよ」もう天辺すら見えなくなってきた夕陽に向かって彼女はいった。

「そうだね。」

「…」

「こんなことは言うものではないと思うけれど、なんというか、良かったと思う」

「うん。私もそれなりに良かった気がする。君に会えて、一緒に帰って」

「それなりに、かよ」

「うん。少なくともこうして、また明日も学校に行けたらどんなにいいかと思えている」

「……それは良かったよ」

「ここでお別れしようと思うんだ」夏帆は大きめのリュックサックをこちらに向けて、ゆっくりと遠ざかっていこうとする。

 きっと、もう、「さようなら」と、ただそれだけの言葉が足りないだけなのだろう。名残惜しそうに光を残す太陽はそれを待ってくれているのかもしれない。夜が来る前に、僕は彼女と、こうして、この場所で、別れる必要があるというのだろう。

 そして正々堂々と夜を迎えて、明日からまたなんのことはない日常が始まり、僕は彼女の笑い声も、横顔も、匂いも、口癖も、少しずつ、忘れていくのだ。

「ねえ、ちょっと、待って」思わず口からそんな言葉が零れ落ちると、彼女は一瞬足を止めたように見えた。僕はその刹那を信じようとする。

 けれど彼女は大きく踏み込んで、走り抜けていった。必死に階段を降りて、線路の向こう側へ走り抜けていった。髪の毛を乱しながら、迷いなく全速力で、口元いっぱいに笑みを浮かべながら、他愛のない笑い話を思い出しているかのように、明日を楽しみにするように、まるでこの街に生まれてきて、良かったとでもいうかのように。

 「また、学校で会おう」彼女は息を切らしながら、大声で手を振っていた。

 「また、学校で会おう」口から思わずこぼれ落ちたのは、ほかならぬただの嘘であって、僕らは多分その嘘を、どうしようもなく、その一瞬間を、信じようとしたのだ。

 人々を乗せた中央線が僕と夏帆の間に勢い良く走り抜けた。明日になったらもう、彼女はどこか、僕の知らない街に消えている。

 どうか、消えてしまう前に一瞬間を、一瞬間をくれ。そう願っている間がどうしようもなく苦しい。オレンジ色の電車が隣駅に去っていくのに合わせて、もうどんな声も届かないほど小さくなった夏帆のリュックサックが見える。

 どうして沢山言葉を知ってしまったせいで、言葉を無責任に発することを怖がるようになってしまったのだろう。どんな風に受け止められてもいいから、僕は深く考えることなどせずに、しっかりと伝えるべきだったのだ。

 どんなに君との帰り道が楽しかったかということ、どんなに君を尊敬していたかということ、どうにかして君を守れたらいいのにと考えて眠れない夜があったということ、結局はいつも自分勝手で無力な自分に嫌気がさしたということ、短い髪の方が似合っているということ、どんなに僕が君のことを、好きだったかということ。