フクラム国

タルイのブログです

Here Comes The Sun and I Say 12(終)

第12章 深浦:それならそれで、もういい。

 

 夜に四肢が溶けていく気がした。何もかもに忘れられて、この世界の中で、一つの個性を持たない構成物質として融解していくような気がした。それは案外心地が良くて、私は少年の「君が人間的な生物でいたいのなら」という言葉を何の気なしに思い出す。私は考えることをやめて、ただ溶かされるままに、この世界で、死んだように生きていいのだろうか。変な自意識や、しっくりとこない人間関係や、頑張らなくては取れない数学のテストや、ヴァイオリンをやっている自分が何処かから連れてくる憂鬱だとか、もう全部ないことにして、溶けていくように生きていくべきなのだろうか。

 陣野くんと別れた帰り道、臨海公園に一人体育館座りをすると、全く立ち上がる気が起きなくなってしまって、そのまま日が暮れるのに任せてうたた寝をしたり、ぼうっと空を眺めていたら、いつの間にか夜の深い部分に一人でうずくまっていた。あたりは真っ暗で波の音と潮の匂いだけが私の感覚が生きていることを教えてくれる。まるで、深海にうずくまっているようだ。

 自意識や憂鬱を全部ないことにするのは、それは何か違う気がする。私はそれらがあるおかげで随分と苦しんでいるけれど、そんな風に全てをなくす方へと自分を方向付けていくと、何か、何か大切なものを忘れてしまうような気がする。

 よくわからない。もう、どうやって生きていけばいいのか、とか、生きている意味だとか、とてもじゃないけれど、そんなことを考え続ける毎日は、私には耐えられそうにない。体を丸めると意外と暖かくて、このまま何かを忘れてしまうのだろうかと、何か悟りのような無常を感じた。それならそれで、もういい。

 私はしかるべき時間をかけて待たなければいけない。もし、それが来なかったら、そしたらもう、その時だ。私の影は薄れ、やがてなくなるのだろう。

 自分の息が聞こえる。随分と聞いていなかった音。自分とは遠いところにあるようで、でもそれにしては随分と馴染みのある音。段々と眠気がまたやってきて、私のか弱い意識は知らない間にこの世界から別の場所へと持って行かれてしまう。

 そこでは私は小学生になって、灰色のワンピースを着て、一人ぶらぶらと揺れる自分の足を眺めていた。帰らなければ、と、そればかりが頭の中にはあって、けれどどこに帰ったらいいのか分からず、何よりもぐったりとした体が考えることを拒んで、ただひたすらにぼうっとする。そこはヴァイオリンの先生のいるマンションの近くにある公園だった。確か「中の島公園」というところで、私は小学校の頃はレッスンの帰りによくそこで、一人物思いにふけっていたものだった。

 ふと景色が動いて、見ると男の子が文庫本を片手にベンチから立ち上がるところだった。私は自分の意識が飛んで行った世界に自分以外の人間がいたことにすこし驚く。そして彼が高校で隣の席に座っている京谷くんだということがわかる。京谷くんは小学生の姿ではなく、いつも学校で見るような高校生の姿をしていた。彼は何か私に興味がありそうにこちらを見ている。私がわかるのだろうか?いや流石にそれはないと思う。背丈も髪型も、そして使っている表情筋も随分とあの頃と今とでは違っているはずだから、面影はあるにしろ割と違った印象になっているはずだ。彼が軽くお時儀をしたのでこちらも返すと、京谷くんは満足したように公園をでた。

 そこで意識は再び今の私に戻ってくる。空は徐々に明るさを帯びてきた。ふと、背後に誰かが走っているような気配がして振り返る。しかしそこには誰もいなくて、ただほんの少し明るくなった闇が相変わらずあるだけのように見えた。けれど確かにそれは聞こえたのだ。何も怖い気はしなかった。それは間違いなく、私に向かって走ってくる音だった。帰る場所を見つけたかのように、少し急いで、けれど安堵を伴った足取りで私の方に向かってきていた。

 やがて、私は立ち昇る太陽が自分の影をしっかりと作るのを見た。それは科学的な根拠だけでなく、もっと内的な意味で、そこに根付いているように思えた。或いは気のせいかもしれないけれど、もしかしたら先ほどの足音は、うずくまっていた私の下に帰ってきた影のものだったのかもしれない。

 もう家に帰ろう。そしてシャワーを浴びて、また外に出るための自分を作ろう。取り敢えず今日もまた、日常の中に入っていこう。

 何か深い陰鬱が終わったような気がした。はっきりとした解決を見せたとはとても思えなかったけれど、取り敢えず少しばかりの時間をやり過ごせただけなのかもしれなかったけれど、けれど、然るべき時間をかけて、その陰鬱が去っていくのを待つことができた。私はもしかしたらそのことを一つ成長とでもいうべきものとして、捉えてもいいのかもしれなかった。

 まだ学校が始まるまでには時間がある。シャワーを浴びて、そしてあの学校へ向かおう。

 日常の中に戻ろう。

 

最終章 京谷:Here Comes The Sun and I Say

 

 教室が賑わい出すと、窓の外ばかりを眺めてホームルームが始まるのを待った。”Here Comes The Sun”を小さく口ずさむ。昨日よりも今日の方がしっくりと合っているような気がするし、何より、’It’s alright’と、今なら言える気がした。もう、大丈夫だ。そんな深い確信めいたものが、体のどこかにある。

 底抜けに明るいメロディーが愚直に太陽の昇るのを信じたように、僕もまた、彼女の登校を愚直に信じていいはずだ。隣の席に彼女が来るのを、待ってもいいはずだ。

 ほら、太陽が登るよ

 ほら、太陽が登るよ

 もう大丈夫……

 

 ホームルームが始まる五分前のチャイムと同時に、教室の扉を開ける音がして、なんの根拠もなく、「ああ、彼女だ」と感じた僕は、入ってきた人物を確認することなく安心して外を見続けた。安心しながらも少しだけ高鳴る鼓動の中で、まるで外に今見なければいけない大切なものがあるかのように、少し気取って、肘をついたりなんかして。

 ゆっくりと足音が近づいてくる。

 僕はいよいよ待ちきれずに足音に合わせてゆっくりと振り返る。ホームルームに備えて黒板の日付を変えているクラスメイトが見える。卒業まであと「 」日、の数字が一つ減り、また少しだけ豪華になっていく。

 そして深浦さんが、隣の席にカバンを置く。

 

「おはよう」透明な声がする。彼女は小学生みたいに微笑んでいる。

「おはよう」僕は温めていたその言葉を、ゆっくりと唱える。

 

(了)