Here Comes The Sun and I Say 9

第9章 京谷:巨大な力にさらわれないように

 

 深浦さんのことを思うと、今まで気にしてこなかった沢山のことが思い出されてきた。耳元にある少し大きめのホクロとか、考え事をしている時にシャーペンをトントンとする癖だとか、そんな所を自分が見ていたことが少し恐ろしいと思うくらいに。確かなことかどうかは置いておいて(世の中にどれだけの確かなことがあるというのだろう)、自分の誰かへの想いを「恋」と一度名付けてしまうと、たったの数時間後には、それ以外の言葉で気持ちを把握することができなくなってしまった。不思議なことに、もう今の自分は、純粋に深浦さんのことだけを考えている。深浦さんの住む街に行って、彼女が今なにをしているのか、学校に明日は来てくれるのかどうか確かめたいと、心から思っている。

 とめどなく続いていく深浦さんへの想いに終止符を打とうと、久しぶりにギターを取り出した。父親から譲り受けたアコースティックギターは、少しだけ古びた弦を巻いてまだ元気に音を出した。所々狂っているチューニングを直していく。正しい音程になると他の弦が静かに共鳴して、楽器自体が整体を受けて心地よくなった後みたいな素直な音を出す。その瞬間が気持ち良い。

 カポを7フレットにつけてDのコードを弾く。下2弦を弾かずに、底抜けの明るい音を出す。The Beatlesの”Here Comes The Sun”だ。この夜に全く合っていないとも言えるその素朴な旋律に、何かを忘れたように身をまかせると、彼女への想いが混沌としていくのを防げる気がした。

「ほら、太陽が登るよ

 ほら、太陽が登るよ

 もう大丈夫

 ねえ、長くて孤独な冬だった。

 ねえ、もう何年も経ったような気がするんだ

 でもほら、太陽が登るよ

 ほら、太陽が登るよ」

 一番を歌ってみて、やっぱり今歌う曲ではないのかな、と思う。まだ然るべき時が来ていないように思える。彼女の顔がもう一度見れると、もう一度「おはよう」と言い合えると、そう確信した時でないと、”It’s alright”なんて素直な気持ちで言えないような気がした。せっかくギターを出したのだし、歌いたい気分だったのは確かだったから、昔好きだったバンドのラブ・ソングを歌い出す。けれど、「守るべき人」とか、「信じる」とか、そんな大層なことを言える心持ちでは全くなかったから、却って批判的になってしまう自分がいた。

 一人でギターを弾くことも、立派な精神的自慰行為で、それ以外の何でもないのだろうか。歌を歌って気持ちよくなるのは、ひどく身勝手な唯の自己満足なのだろうか。全てが「自慰」という言葉で片づけられそうで、情けない。

 ベランダの窓を開けると夜風が冷たく入ってきて、室内を一段と引き締まったものにした。見慣れた街、隅田川、屋形船、ゆっくりと変化しているのだろうけれど、昨日と同じに見える空、星。多分あと10年以内に、僕はこの家を離れて、この街をでていくのだろう。知らない街の知らない川をこんな風に眺める日が来るのだろう。屋形船はないかもしれないけれど、またゆっくりと変化しているはずの星空を、同じものと感じるかもしれない。意識せずに出たため息に身を任せて空を見上げるのをやめる。前方の道路に一人の少女が見えた。

 間違いなく、中之島公園で見かける少女だった。彼女は力がうまく出ないのか、今にも倒れそうにして這うように一歩一歩進んでいた。深浦さん、衝動的に胸の中で唱えると、その言葉が世界で一番意味を持った単語であるように思えて、僕は身支度をして外へ出た。

 灰色のワンピースを着た少女はこちらに気づくと力なく微笑んだ。彼女と僕の間に一本の通路のようなものが出来る。外から入ってくる風の音だとか、街灯だとか、全てが介入することなく、世界には僕と彼女二人だけになったような気持ちになる。

「あの…大丈夫ですか」

「帰りたい」少女はそう呟いた。思った以上に透き通った声をしていた。

「帰りたい。でももう、力が出なくなってしまった」少女は少し残念そうに言った。もうこうなってしまったからには仕方がない、とでも言うかのように。

 少女には少しの違和感があった。目の前にいながら、僕に大きな意味のある女の子として僕の前にいながら、やもすると見失ってしまうような、そんな存在の薄れを身にまとっていた。少女は薄れ始めている。

「もし君さえ構わなければだけれど、良ければ近くまで送っていくよ」僕は何の気無しの提案という感じで呟いた。

「行き先はわかる?」少女が聞く。

「うん。わかると思う」そう返しながら僕は少女の耳元にあるホクロを確かに認める。

「それなら…」そういうと安心したのか彼女は少しうとうとと体を揺らした。

「眠いの」

「うん。眠い」少女は目をこすりながら僕が姿勢を反転させておんぶの姿勢をするのを待っていた。力なく背中に乗る彼女はまるで重ための空気を背負っているような軽さで、僕は変に納得したような気持ちになる。

「それで、行き先の確認をしたいのだけれど」…返事はない。少女は自分がとりあえず落ち着ける場所を見つけた途端に寝てしまったらしかった。

 もう深夜と言っていい時刻だ。終電にはもう間に合わないだろう。タクシーは、と思ってふと道路を見遣ると、車が一台も走っていないことに気づく。

 妙な静けさだった。おそらく、たまたま自動車が通っていない、ということではないのだ。多分幾ら待っても自動車は来ないだろう。背中に感じるわずかな暖かみを、言いようのない巨大な力が奪い取ろうとしているかのようだった。息を潜めて、少女が夜に迷い込むのを待っている。静けさからはそんな意思が感じられた。

 おそらく、この少女は、世間的に見て奪われてしかるべき何かなのだろう。おそらく、深浦さんにとって、このままいけば無くなるはずの何かなのだろう。

 深浦さんは確か学校の近くに住んでいたはずだ。そこまでどうやら巨大な力にさらわれないように、ゆっくりと少女を抱えて歩くしかないようだ。僕は一番嫌いな小説家の口癖を仕方なしに真似ることにした。幾分自分には格好が良すぎて、言えば侮蔑的な笑いが自分から漏れることはわかっていながら、それでも背中で眠っている「帰りたい」と呟いた深浦さんの「何か」を感じると、幾分格好つけたがる自分というものがいた。

 やれやれ、と僕は呟く。それが正しいことなのかわからないけれど、もしまた彼女と会えるというのなら、夜が明けるまでに、少女が消えてしまう前に、他ならぬ彼女の街に歩を進めてみようと思った。