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L'après-midi d'un faune

タルイのブログです

Here Comes The Sun and I Say 8

第8章 深浦:翼を生やして飛んで行ってしまうのだろう

 

 存在そのものが飲み込まれるような、そんな夜が来た。家中の漫画を枕元に置いて、眠気が私を捉えるまで、根気強く、展開の早い物語に重い体を没入させる。

 ヴァイオリンの上手い人なんて本当に数え切れないほどいるのだ。この東京という一都市にだって、ありえないくらい上手い人が数多いることを知っている。増して世界に出れば、どれほどの人がいるのか、幾ら想像を巡らせても現実はそれを超えてくるだろう。

 その中で、「私が私という演奏者である」ということの意味をいったいどんな風にして認めれば良いのだろう。私の演奏が例えば誰かを感動させるとして、その誰かは多分、私よりも上手い人にも感動を覚えるのだろう。それは単純な技術面の話だけではなくて、「何かしらを訴える力」というものも、ある程度の個別性を持ちながら、やはり相対的に評価することができるように思える。

 自らの内側に潜ることに慣れていない。すぐに逃げ出したくなる。頭が痛み出し、もうこれ以上は考えずに眠ってしまいたい。明日になれば多分、陰鬱な感情は全て太陽が追い払ってくれるはずだ。

 しかし夜は眠気をそう簡単にはもたらさず、ただ時間だけが過ぎていく。そんな私を見透かしたように枕元のスマートフォンが震えた。

「ふーちゃん今日学校休んだらしいけど、どーした」と軽い口調が画面越しに見え、強引に現実に引き戻されたような、安堵とも呆れとも言い難い意識の浮力が働く。

 中学の同級生からだった。彼は面白い人だった。極度のナルシストで自らをヒーローと自称しながら、さも当然のように全くの門外漢だったはずの美術系の高校に進んで周囲を驚かせた。無類の女好きで、少しでも可愛げのある女の子にしつこく付きまとっては嫌がられ、そして皆に愛されていた。

 私は夜が少し明るくなったように思えた。中学時代のことが彼とのつながりを持って思い出されていく。黒板に出された問題の解答者が出なかった時、彼は私のノートを覗き込むと得意げに手を挙げ「かましてやって下さい深浦さん」と笑いながら叫んだのだ。当時から外界との関わりを拒んできた私は、突然の彼の言動に激しい怒りを覚えたけれど、突如賑やかになったクラスの雰囲気と、彼の意地悪さの欠片もない笑みになんだか自分でも面白くなってしまって、少しにやけながら黒板に向かっていった記憶がある。

 無口でいじめられがちな男の子にも、社交的な場から自ら距離を置いていた私のような人間にも、「俺が毎日を楽しみたいだけなんだ」という大義名分のもとに、こちらの都合など関係なく介入し、クラスの中でそれぞれの居場所を確保させていく。無論その多方面に向けられたある種の優しさは誤解を招いたりもしていたけれど、クラスの少々柄の悪い人々にも「面白いやつ」だと言われ、女子の大半には「うざい」と笑われながら、それでも確かに彼はある意味の「ヒーロー」として中学時代を過ごしていたように、私には見えていた。

 「そう、少し都合が悪くて」無感情に返信を送ると、「仕方がないお見舞いにいってやろう」ときたので、「こなくて大丈夫」と文字を打つ。

 少しばかり忘れていた夜の寂しさと重苦しさが私を枕元に縛りつけるようにまた脳裏に伸びてきた。

 陣野くんのような人こそが(彼は陣野という苗字だった)もしかしたら演奏家として価値のある人物になれるのかもしれない。自らがヒーローだと心から言えるような人は、多分、何のためにやっているのか、なんて自分へ問いかける暇などなく、「俺がやらなければならないんだ」というある種の使命感みたいなものを持ち、うじうじと足を止め悩みながら歩いている私の遥か先へ、翼を生やして飛んで行ってしまうのだろう。ヴァイオリンの演奏家というものはかなり職人的な技術が必要となるし、そういった「表現するための前提」みたいなものを手にいれるので精一杯になるような職業である。でも、とどうしても思う。私のそういった技術を身につけるための努力なんて、誰にでもできてしまうことだろう。事実私より上手い人は、星の数ほどいるのだから。

 夜が深まっていくにつれて孤独は耐え難いものとなっていき、時折震える携帯のバイブ音だけが私を現実に引き止めているような気がして、陣野くんの他愛もなく、ただ私を笑わせようと努めるLINEのふざけた文面を気付けば祈るように待っていた。森の中を漂う迷子の子供のような姿で、スマートフォンの灯りを頼りになんとか現在地を把握しようとする。部屋の中の何もかもが闇に色を塗られて混沌とした容貌をまとい、そこに何があるのだろうかという好奇心と、それを覆う恐怖心が落ち着く暇を見せずして、結局眠りについたのは、午前三時半を過ぎた頃だった。

 翌日LINEの会話履歴を見ると、私は恥ずかしくなるくらいに陣野くんへの心の内を不器用に話しながら、今日の夕方に会う約束を取り付けていた。

 自分の矮小さに身震いする。長い自慰行為を終えた後のような、そんな朝だった。