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Here Comes The Sun and I Say

タルイのブログです

Here Comes The Sun and I Say 7

第7章 京谷:そうすれば少なくとも

 

 終わりのチャイムが鳴った。今日も放課後の予定は全くなく、同じようなホーム・ルームが機械的に進行し、そして結局、深浦さんは今日も学校に来なかった。帰路に向かいながらぼんやりと空を見る。空の流動に身を任せていると身体の感覚が希薄になってくる。自分の身体も、この地面も、自動販売機も雑草も、どれも同じように思えてきたりする。それは音楽を聴いている時と少し似ていた。流動が自らを束縛していたものを溶かしていく。そこには何一つとして重さを持ったものはなくて、しがらみをもった秩序はなくて、ただ「自分は何でもない」ということだけが、「自分は何にでもなれる」ということを証明しているように思えた。そしてその感情を感じた後に、それならば僕は作家になりたいと、そんなことを思った。

 昔から物語を読むのと同時に書くことも好きだった。何より、自分が書いたものを後で見返すのが好きだった。そこには自分がいつも夢見ていた「どこか」が持っているなにかが含まれていて、内的な世界へ外的な文字から浸るところができた。

 僕は帰り道をゆっくりと行く。多分、自分のことがたまらなく好きなのだ。自分でも驚いてしまうくらいに。自分の中の世界は未だ美しさを隠していると、そんな風な期待を持っているのだ。作家になりたいという想いは、その延長線上にあるだけなのかもしれない。

 ああ、毎日が自慰行為だ。人前にでなければいけない時間を何とかやり過ごしながら、一人きりの時間に、自分の最も気持ちの良い場所をひたすら刺激し続けている。音楽も最早その為の玩具でしかないのかもしれない。気持ちよくさせてくれるバイブレーションを求めて、ただ僕は、耳元にドビュッシーを流しているのかもしれない。

 一通り考えると嫌になってきた。結局の所、と脳は結論づける。僕はその結論にほくそ笑みながら、しかし同時に変な恥辱のようなものを感じる。

 童貞。精神的な童貞。生理的嫌悪が鼻をついた。それは僕自身の匂いだった。

 

 中之島公園に着くと何の気なしに昨日の少女を探していた。もしかしたら今日もまた、この場所にいるのかもしれないと期待を抱いて。

 果たして彼女は昨日と同じベンチにいた。今日は足をぶらぶらさせることなく、ただ顔を少し上方に向けて目を閉じていた。まるで空から降ってくる身体に良い影響のある何かを一つ残らず受け止めようとするかのように。彼女は確かに、昨日よりも幾らか弱っているように見えた。身体のエネルギーを極力使わない態勢で彼女はただそこに佇んでいる。僕がその姿を美しい一風景としてぼんやりと眺めていると、やがてゆっくりとまぶたが開いた。

 ああ、やっぱり深浦さんと似ている。確信は妙な安堵へと繋がり、僕はやっと彼女から目を離すことができる。

 ベンチに腰掛けると、夕暮れは最も現実離れした赤紫の空を落としている所だった。僕は小説を開いた。1950年代のアメリカの男たちがヒッチハイクを乱用し、古ぼけた車をかっとばし、自由奔放に何かを求めて移動し続ける物語だ。なにかが自分には足りないこと、そのなにかが「ここではないどこか」にあること、それだけが確かなこととして、彼らの行動原理を突き動かしている。目的地にたどり着いてもどこか釈然とせず、結局の所全てが徒労で最後には死だけが待ち受けているとしても、またすぐに次の場所へと狂ったように移動していく。

 僕は彼らのおんぼろで土臭い車に共に乗りながら、スピート違反おかまいなしで広い荒野を爆走しながら狂ったように歌い、酒を飲み、セックスをする自分を想像しながら読み進めた。常に肌を切るように吹き付ける風が全身をそわそわと囃し立て、限りない快楽と自由と共にどこかに向かい続けている自分。衣服を脱ぎ捨て、常識や倫理を忘れ、ただ内なる欲望を埋める術を探し続けている自分。

 それは心地が良かった。一時的に没入する世界としては最高に楽しいもののように思えた。確かに僕と彼らでは、時代も環境も、受けてきた仕打ちの数も違うし、今の僕は決してそんな風に常識を捨て去ることの出来ない凡庸な人間なのだけれど、その移動し続けることへの欲求、どこかを夢見ることへの衝動は、どこか深い部分で少なからず共有できるように思えた。なにかがいつも物足りなくて、だからこそ僕のいるべき場所は他にあるのではないかと、「今」への違和感が膨らんでいく。

 本を閉じると、目の前にはいつの間にかベンチを横になって眠っている少女がいた。深浦さんのことが同時に脳裏に浮かぶ。静かに姿勢良くノートをとり続ける彼女の横顔だとか、おにぎりを食べながら本を読む彼女の昼休みだとか、朝僕に「おはよう」と言う彼女のほんの少しの微笑みだとか。

 深浦さんと僕はお互いに無口な方だったし、僕も、そして多分彼女もまた、やり過ごすように学校を過ごしているのだけれど、それでも思い出す学校での深浦さんの姿だけが、思い出の中で、尊いものとして確かな輝きを見せていた。きっと小学生の頃の深浦さんは丁度あんな感じだったのだろうと眠る少女に目を向ける。無防備なその寝顔は、世界の秘密そのもののように見えた。

 不思議なものだった。今この瞬間どこへ行きたいかと問われれば僕はきっと、大はしゃぎする男たちのいる1950年代のアメリカでもなく、いつも夢見る「ここではないどこか」でもなく、深浦さんのいる場所へ行きたいと、そう答えてしまうだろう。彼女が日常の中に当たり前のようにいたついこの間までの学校に、明日また行きたいと、そう答えてしまうだろう。

 それが正しいことなのかは分からないけれど、僕はこの感情を恋愛的な何かだと思うことにした。確かなことは分からないし、特別何かを理解しているわけでもないけれど、しかしそれでも、「また彼女に会いたい」というこの想いを恋と呼んでもいいはずだ。それを否定する権利は、多分誰にもないのだ。この不確かな想いを恋と名付けてみよう。そうすれば少なくとも、毎日は、この場所で生きなければならない退屈な日常は、より色付いたものになるはずだ。

 海に日が落ちた。少女はまだ眠っていて、僕は公園を出て家へ向かう。イヤホンを外すと商店街の喧騒が久しぶりに脈動の証のように両耳へ入ってきた。