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できるだけ真っ直ぐなうそ

タルイのブログです

Here Comes The Sun and I Say 6

 第6章 深浦:深海の中でうずくまるみたいに

 

 練習は思っていた以上に捗らない。というより、弾いていることに全くと言っていいほどの充実を感じられない。言いようのない空虚さが身を包んで離さなかった。

 果たしてヴァイオリンをすることにどれだけの価値があるのだろうか。幼いころから好きだという理由だけで続けていき、それなりに上達して、高価な楽器を買い、気付けば「続けていきたい」ものから「続けなくてはならないもの」へと変化しているのではないだろうか。「ヴァイオリンを辞める」と、両親に、先生に、これまで出会ってきたすべての人たちに言えるはずがなかった。それはもう、抗いがたい流れの中で始まってしまっているのだ。彼らの多くは「頑張っている」私を心から応援し、私の進む未来を応援する善良な人々だった。しかし私はヴァイオリンを弾いて一体どこに向かいたいのだろう。

 散歩に出よう。部屋の中にいるから変な陰鬱にとらわれるのだ。悪い方へ、暗い方へばっかり頭が向かってしまうのだ。イヤホンも携帯も持たずに、社会とのつながりを絶って散歩に行こう。

 

 平日の昼間は新鮮だった。街行く人々は皆一様にゆっくりと歩いている。働きすぎと騒がれる日本の会社員たちとバランスを取るみたいに。空は不気味な位透き通っていて、風は心地よい程にそよぐ。自分の住んでいたこの街はこんなにも穏やかだったのかと、変な安心感を覚える。私は臨海公園に向かうことにした。

 海が昔から好きだった。海の中にいる自分を想像することが好きだった。静けさに満ちた世界に、なんのしがらみもない純粋な私そのものがうずくまって、時折聞こえる「ゴポ……ゴポ…」という水中音に耳をそばだてながらたゆたっていく。昔からバッハは海の音楽だと思っている。バッハを聴いている内に、辺りには海が満ちて、深海の中をたゆたうように音が移ろっていく。私はバッハが好きだった。それも熱情的になりすぎないバッハが好きだった。声を張り上げることなく、ただ等身大の自分を認めながら、静かに目をとじて、何かを待っている。そんなバッハが好きだった。

 散歩は悪くない。机に向かうよりもずっと色んなものが見える。例え目の前に壁が立ちはだかっていたとしても、ピントを今一度其処から外すことができる。それはある意味で死を遠ざける一番の方法と言えるし、その壁に対しての向き合い方を一度考え直させてくれる。

 見渡す限り公園に私は一人だった。潮風に吹かれて音を立てる草原が眼前には広がって、日常から取り残されたみたいに、村全員参加のお祭りから一人逃亡したかのように、眼前に揺れる海を前に佇みながら、長めのスカートを揺らしている。私は一人だった。

 私は一人だ。人間として生まれて、深浦家の人間に育ち、それなりの人間関係を持って16年程度の人生を生きてきたけれど、私は私でしかないし、結局のところ、他人は他人だろう。

 私は私として、何故今日を生きているのだろう。もし私が死んだら、多分幾らかの人は、私の想像をはるかに超えて悲しむのだろう。そして私は後悔するはずだ。「死ななければ、よかった」と。

 では生まれてこなかったとしたら?それに越したことはないんじゃないだろうか、とも思う。人間が生まれて、果たして何をしたのだろう。生態系を壊した。でも素晴らしい芸術を生んだ。科学を生んだ。でもそれは大部分が、人間自身のためにだ。

 人間は間違いなく自己中心的だ。心の分かり合えない物への排他的精神の塊だ。人と仲良くなるための一番の方法は共通の誰かの悪口を言い合うことだ、という話を聞いたことがあるけれど、そんな風に、何かをコミュニティーから排除することで生存を保つような生物なのかもしれない。どうしたら、自分が人間として生きていることを肯定的に捉えることができるのだろう。私は生きていてよかったと思ったことがあったか。

 

 「薄れ始めている」ふと背後から透明な声がして、私は慌てて振り向く。

「影が薄れ始めている」透き通った声の主は白髪の少年だった。

「影?」と私は尋ねる。さっきまで誰もいなかったはずの場所に突如現れた存在にびっくりとする一方で、白髪の少年があまりにも自然に話しかけてきたから、妙な落ち着きを感じて、こちらも自然に受け答えしてしまう。

「そう。」少年が微笑む。この世のものとは思えないような白い肌と、真っ白な髪を、透明な声。彼の微笑みは世界中の悪行を許すような超越的な優しさとでもいうべきものを含んでいる。

「君の影は薄れ始めている」少年はいくらか悲しそうに言う。

 私の影は薄れ始めている。私は自分の影を見た。しかし科学的根拠に基づいた濃さを持って影はしっかりと私につながっているように見えた。けれど多分、そういうことではないのだ。

「私の影は薄れ始めている」私は声に出して呟いた。

「そう。君は影をどこかに落としてきてしまった。だから多分、僕に会えたのだろうね」少年は私の隣まで音もなく降りてくると、そよ風のような自然さで草原の上に寝転んだ。私は彼を見下ろす形になるのが言いようのないほどいたたまれなくなり、彼と同じように寝転ぶ。空がいつもより青く見えた。

「君は悩みを抱えている」少年が私の隣でいった。草原それ自体が話しかけているような気がした。

「うん。少し参ってしまっている。なんだか、何にもわからなくなってしまいそうだよ」

「待つことだよ。しっかりと、息を潜めて」少年の言葉は何の雑音もなく、美しいメロディーのようにして私の中に入ってくる。

「深海の中でうずくまるみたいに」私は自分が膝を抱え込みながら深海の中で丸まっている姿を想像した。随分とちっぽけにみえた。

「深海の中でうずくまるみたいに」少年はゆっくりと反復しながら肯定を示す。

「信じて待つことだよ」

「私はいつまで待てばいいのだろう」

「わからない。けれどそんなに時間は残されていない。」

「私の影は薄れ始めている」私はもう一度自分の影を見る。

「君が人間的な生物でありたいと思うなら、君は影が戻ってくるのを信じなければならない」ひっかかる言い方だった。人間的な生物?

 私はゆっくりと目を閉じた。耳に触れる草原のささやき声と、意識を落ち着ける少年の存在と、一瞬間の安らぎと。ゆっくりと体内は静けさに帰っていく。海は荒く波打つのをやめていく。上ずっていたなにかが、あるべき場所に落ちていく。

「ねえ?どうして私はこんな風に生きているのだろうね」私のつぶやきに返事はない。

 目を開けて隣を見れば、そこには初めから何一つなかったとでも言うかのように、鮮やかな草原が風に身を任せているばかりで。

 少年はどこへ行ったのだろう。私は不思議に思う一方で、なんだか少年がいなくなったのはとても自然なことのようにも思えた。

 「どうして私はこんな風に生きているのだろうね」今度は遠くに放るようにつぶやく。私は一人だった。