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L'après-midi d'un faune

タルイのブログです

Here Comes The Sun and I Say 4

第4章 深浦:生理的な嫌悪感が止めどなく広がっていく

 

 私の中学校はさして頭のいいところではなかったから、普通にしていれば、成績はいつも上位だった。普通にしていれば、と言ったけれど、その頃の私(今もだけれど)の「普通」が周りの人よりありていに言って「ストイック」なのはなんとなく自覚している。長距離走の授業などでそれは顕著だった。私は何があっても歩かなかった。もっと言えば、歩けなかった。何か一つのことに取り組んでいるときに、その意欲を緩める術を知らなかったのだ。苦手な数学であっても、わからないと放り出してしまうことがどうしても出来なかった。それは世間的にはいいことのように思えるけれど、言うなれば不器用という話で、そうでもしないと毎日に充実感を得られない自分を、単純に鈍感だとも思った。

 学年トップクラスの成績を一応取り続けていたのが私だとしたら、学年トップの成績を取り続けていたのが田村くんだった。田村くんは私と違った。あらゆる意味で違った。彼は何事にも興味がないのだ。勉強をすることも、運動をすることも、ただそれをしていれば面倒なくやり過ごせるから、あらゆることに、やりがいのようなものを全く感じていないようにみえた。いつだってぼんやりと外を眺めて何の生命力もなく毎日をやり過ごしていながら、それでもテストとなれば満点に近い点数をとってしまうのだ。もうこんなことはなんでも知っている、新たな何かを学ばずとも全部覚えている、とでも言わんばかりに。

 彼は無口な方だったが、私には時たま話しかけてきた。私はそれが、すごく苦手だった。彼はいつでも、私が何かに精一杯取り組んでいるのをみて、そうしないと生きていけない人間もいるということが心底理解できないとでも言うかのように、「何でそんな無駄なことをやるの」と冷笑しながら聞いてくるのだ。私は「そういう性分なの」と笑うしかなかった。表面上は逃げ切ったようにみえて、彼のぬるぬるとして、かつ切れ味のあるその言葉は、私の学校生活の唯一の「生理的に嫌なこと」となっていた。

 「世の中には生まれ持った才能によっていたって不平等に作られている」そんな思想を体現したような彼という存在は、クラスのほとんどの女子から好意を寄せられていて、それが素直に気持ち悪かった。彼は時折自らが特別であるような侮蔑的な表情で人を見るのだ。愛とか優しさとかそういった諸々の人間的感情を超えた真実を知ってしまった自分を悲しむように、真実を知らず生きることを楽しんでいる一般人を蔑むように、冷たい笑みを漏らすのだ。

 

 月島駅前のタリーズ・コーヒーで、2年ぶりに彼を見かけた。私はすぐにでも逃げ出したいような気持ちに駆られたのだけれど、気づいた頃にはもう遅く、まるで私の無防備な首筋を這うように、彼は目の前に現れてしまう。

 「深浦さんだ。久しぶりだね」田村くんは何かが圧倒的に欠けたひどく不気味な笑みと共に、何の違和感もなく向かいの席に座った。まるでその席は元々彼のために用意されたものだとも言うかのように、極めて自然な動作で。彼はそんな風にして、私の覗かれたくない部分にぬめぬめとした肌触りで侵食してくる。

「まだヴァイオリンやってたんだ」田村くんはヴァイオリンケースを軽く指差していう。

「うん。ずっとやっている。」心の波を荒立てないように調子を合わせていく。

「へえ。」冷笑が浮かんだ。そして嫌な沈黙が始まる。

 心臓の中にある一番人に見られたくない部分をルーペで見られているような感覚が絶え間なく五感を襲った。出来ることなら今すぐ外に出てしまいたかったけれど、湯気を出すドリップコーヒーはまだ3分の2程残っていたし、それになにより、「もう、見つかってしまった。捕らえられてしまった」という感覚が能動的な動作を許さなかった。

 田村くんは中学のときよりも幾らか痩せたように見えた。元々痩せ気味ではあったけれど、今目の前にいる彼は、不健康に見えるほどの痩せ方をしていて、あの頃の自分が生理的に嫌がっていた部分ばかりが彼の中で育ってしまったことを、私は認識しないわけにはいかなかった。

「家、ここら辺なの」田村くんが私に聞いた。

「いや、先生の家がこのあたりにあって」

「先生って、ヴァイオリンの?」

「うん」

「レッスンって、どれくらいかかるの」

「……一回1万円」彼には言いたくないことだったけれど、首すじに絶えず感じるぬめぬめとした感触が怖くて口は無意識に喋りだしてしまう。首すじの感触は弱まるどころか胸のあたりまで降りてくる。私は裸にされていくような気がする。理性で抑えることになれた生理的部分を、強制的に前に引きずり出すような声がする。

「イージーゲームな人生でいいね」と彼は言う。

「頑張ってますって姿勢さえあればそれで金もらえるんだもんね」彼はひたすら、私の裸を見るために執拗に服をそぎ続けているようで、そういうプレイを楽しんでいるようにも見えた。

「しかも女とか、やりたいことやって、もういいやってなったら安定した男と子供作って結婚して…って感じね」

 私は自らの生理的な嫌悪感が歯止めなく広がっていくのを抑えることが出来ずにいた。背筋は休まることなく奇妙な寒気を帯びている。しかし彼の、中学にはなかった変な執拗さ、余裕のなさに目が向くと、生理的な部分がむき出しになって彼に触られるのをあと一歩で抑えることができた。

 この人は必死なんだ。あまりにも私を攻撃したがっている。私のいやがることをしたくて必死なんだ。現実への子供みたいな抗いではないかと、彼を遠ざけようとする。

「こんな人生、早く終わらないかなあ、死にた。」彼は小刀のような笑みでいう。

「いいよなあ、イージーゲームな人生で。」

 今この瞬間に、目の前で湯気を立てるコーヒーを彼の顔にぶちまけられたらどんなにいいだろう。しかし、執拗な侵食を繰り返した彼のぬめぬめとした何かは、すでに決定的なものを自分に与えていた。自分がコーヒーショップで辱められているような気がした。恥部を人々に鑑賞されているような気がした。

 ごめんなさい、すみません。ということも、自分が思いついたとは到底思えないような汚い言葉も、凄まじい速度で頭を駆け巡った。しかし彼はもし私が一言でも発したら、その糸を決して逃しはしないだろう。首尾よく私の全身を包んでいる衣服を剥がしてしまうだろう。

 私が無言になったのをしばらく乾いた笑みで見ながら、途端このプレイに飽きたと見えて、彼はタリーズ・コーヒーからいなくなった。あたりの喧騒が耳元に戻ってきて、身体中に湧き出る汗に気持ち悪くなり、すぐさまトイレに駆け込む。