フクラム国

タルイのブログです

Here Comes The Sun and I Say 3

 第3章 京谷:まだはっきりとした自己肯定を味わう

 

 読書を終えるとしばらくの間、書き手の語り癖が頭から離れずに、頭の中で繰り広げられる考え事の全てが、その本の語り口調と似通ってしまうことがある。まるで一度意識した呼吸を気づかぬ間にまた意識しなくなる時みたいに、それは一定時間経てば頭から薄れ消えてしまうものだけれど、京谷はその自分の持っていた言語世界が今一度すりかえられたような感覚が好きだった。物語の登場人物がふとそこらに顔を出すかもしれない。世界のすり変わりが擬似的に味わえるその読書後の数分間は、京谷にとって最も大切な日常の一コマだった。

 日没を目前にした中の島公園は鮮やかに橙色をまとっていた。京谷がふとあちらをみると、まだそこには、灰色のワンピースの彼女がいた。風になびくさらさらとした髪をゆっくりと耳にかけ直す少女は、何か固有の時間感覚を持っているようで、長編小説を落ち着いた速度で今さっきまで読み進めていた京谷の時間感覚と不思議な親近感をみせる。

 京谷はぼうっと空を見遣る彼女の目線をゆっくりと辿った。彼女にはこの空の何が見えているのだろうか。何を感じているのだろうか。もしかしたらそこには、僕の知らない非現実的な何かがあって……。とめどない空想が京谷を包むと、やがて日はしっかりと暮れた。橋には等間隔の明かりがつく。ゆっくりと腰をあげると、まるで今の今までそこに生物がいたことに気がつかなかったとでも言うかのように、彼女は多少の驚きをもってこちらを見た。どこかで見たことがあるような気がする。彼女の目に京谷は言いようのない微かな既視感を感じた。軽く一礼をすると、向こうも僅かに頭を下げたように見え、それに満足した京谷はゆっくりと、公園を後にした。

 

 午後11時を過ぎると世界は一気に静けさを増す。何かもう一つの時間軸がそれを合図に動き出した感覚がある。眠くなるまでの少しの間、百均の原稿用紙に向かいながら、1日最後の営みに沈んでいく。

 机を照らすライトの無機質な白光はぽっかりと暗闇に不自然で人工的な空間を生み出している。僕はその中にすっぽりとくるまる。世界中で僕だけが起きているような気がする。書いているのは、自分を満足させるためのショート・ショートだ。言葉は面白いくらい次々と立ち現れて、JPOPのメロディに載って耳障りの良いリズムで綴られていく。

 言葉の価値について。こうして自己満足のために綴る身勝手な言葉と、とめどなく氾濫するツイッターのつぶやきと、バトル漫画の効果音と、『失われた時を求めて』の一節と、松尾芭蕉の一句と。そこに込められている想いに、いったいどれほどの違いがあるのだろう。無論相対的な判断など出来やしないのだろうけれど。

 けれど、じゃあ自分は言葉をどんな風に扱うべきか。「べき」なんてない、自由に使えという風に言われてしまうのかもしれないけれど、今原稿用紙に綴っている言葉の全てが、自分を満足させるための玩具であることに京谷は気づいていた。そんな風に言葉を扱って良いものだろうか。これは他ならぬ、自慰行為だ。

 白光は京谷の自慰行為を無感情に照らし出していた。夜は心なしか卑猥な笑みを浮かべてその姿を鑑賞している。京谷はそれでもやめる気が無かった。自分が記す物語に、まだはっきりとした自己肯定を味わうことができる。内的世界は崩壊の兆しも見せず、醜い野生的な本性も、外界からのつまらない現実の介入もない。いつも夢見ている、ここではないどこかへ。少しばかりの共有をみせる先人たちの夢想世界を利用して、透き通ったユートピアに水上電車で向かう夢を毎日のように綴る。

 自分の本当の故郷はきっとどこかにあって、それははっきりとした形象を持たない一瞬間の印象のようなものだから、そこに形を与えてメランコリックなノスタルジーへ……。