村上春樹とクラシック音楽

 村上春樹の小説には必ずと言っていいほどクラシック音楽が登場する。そして多くの人は少なからずそこで流れる音楽に興味を持つ。『1Q84』を読んでヤナーチェクの「シンフォニエッタ」をyoutubeで検索する人もいれば、『騎士団長殺し』を読んでリヒャルトのオペラ「バラの騎士」を観ようとし1幕の途中で諦める人もいるだろうし(律儀に全幕見た人もいるかもしれない)、『海辺のカフカ』を読んでベートーヴェンの「大公トリオ」が一体どんな曲なのだろうと思いをはせる人もいただろう。

 村上春樹が音楽を小説の中に登場させるのは、作品と根底の方で深い繋がりを持っていて、その曲が作品の謎を解くカギになっているからだ、と考えられがちだけれど、それに関しては、全くそうではない。(『多崎つくる』におけるリストの「巡礼の年」や先の「大公トリオ」など、少しそんな風に使っている作品もあるにはあるが)。彼はミステリー作家ではないし、プロットを綿密に組み立てて書き始めるタイプの作家では全くない。

 村上春樹作品における音楽は、寧ろ、ある意味で「読者サービス」とも言えるし、「ファッション」とも言えるし、「自由意志とは別文脈の必然性に対しての信仰」とも言える。それは批評する側の自由である。しかし、春樹自身は音楽をどのように認識しているのだろうか。

 村上春樹クラシック音楽に抱く思いは、割とはっきりとしている。『海辺のカフカ』から一節を引いてみよう。物語後半、星野青年がナカノさんを連れて図書館に出向き、大島さんに話しかけるシーンである。

 

「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わってしまう、みたいな」

 大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学反応のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにあります。恋と同じです」

 星野さんはそんな大がかりな恋をした経験はなかったが、とりあえずうなずいた。

「そういうのはきっと大事なことなんだろうね?」と彼は言った。「つまりこの俺たちの人生において」

「はい。僕はそう考えています」大島さんはそう答えた。

(『海辺のカフカ(下)』新潮文庫、330頁)

 

 この音楽に対する大島さんの意見は、『意味がなければスイングはない』という音楽にまつわるエッセイ集で、全く同じような形で現れる。村上春樹クラシック音楽への想いはここにあるのだと、僕らはここではっきりと認識できる。また長い引用になるが、前出の引用と比べながら読んでいただけたらと思う。

 

「思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは一致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりをもち、深みを持つようになっていくはずだ。

(中略)

 そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。」(『意味がなければスイングはない』文系春秋、76頁〜)

 

 村上春樹クラシック音楽の「個人的体験」が「自分の世界を一目盛り豊かにする」と言い、そこにある「記憶のぬくもり」は、「まるで恋のようだ」と言う。レコードが世の中に流通し、音楽を自宅で聴けるようになり、お気に入りのレコードをすり減るまで聴いたのであろう彼が考え出した、彼の時代の「音楽の聴き方」がそこにはある。彼の作品に出てくるクラシック音楽は、(全部ではないが)決してメジャーではない作品や演奏家であることが多い。それらの演奏は村上春樹自身が、「個人的体験」として音楽を聴いてきて見つけ出した、「自分だけのぬくもり」を持っている音楽なのだと思う。内的世界を外的世界と同一化させ相互的なアプローチを持って物語を進行させる村上春樹にとって、そうした音楽の個別性はうまく働く一つのツールだった、という見方もできるだろう。

 さて、youtubeをもち、apple musicを持った21世紀に生きる僕らは、果たして「恋をするように」音楽を聴けるのだろうか。もうレコードの時代は終わったのだ。僕らはどのようにしてクラシック音楽を聴き、どのような関係を築いていけば良いのだろうか。

 僕らには音楽の聴き方の自由がある。そして、聴こうと思えば名演奏もマイナーな演奏もほぼ全て聴ける。家から一歩も出ることなくスマートフォンからそれは流れる。もし外に出るとなれば、僕らはイヤホンでそれを聴く。レコードを買うことも出来るし、演奏会に行くことも出来る。音楽の聴き方は無限の選択肢に溢れている。そしてだからこそ、クラシック音楽は聴かれなくなっていくのではないか。

 僕らはクラシック音楽をどう聴くべきなのだろう。どう聴かせるべきなのだろう。「べき」なんて言葉を使うべきではないとしても、聴く態度の自由さが、クラシック音楽に「退屈」というレッテルを貼り付け縁遠いものにしていることは確かだ。だからある程度の「聴く型」を、示す必要がある。

 世間の人がクラシック音楽をたくさん聴くならまだしも、控えめに見て、西洋音楽は余りにも世間から遠のいている。それはクラシック音楽界で生きる全ての人にとっていいことではないはずだ。だから村上春樹のような、人の心を打つような、美しく感動的な音楽の在り方を、データ・ダウンロードに溢れたこの世界で模索する必要がある。それはクラシック音楽を学ぶ一人の人間としての絶対的な使命ではないだろうかと、こればかりは強く、毎日のように感じるのである。