フクラム国

タルイのブログです

古本屋

 古本屋で抱えきれないほどの本を買ったので懲りもせず未読本が増えた。もう未読本が既読本より遥かに多くなって久しい。人は笑う。僕も笑う。けれどこう、うまく言えないけれど、循環する欲望に瞬時に応えられるような本棚を、できる限り、用意しておきたい。

「オレは本が好きだ」と雄叫びを上げながら(しかしながら脳内で)重すぎるリュックサックをおろし一冊一冊ニタニタしながら本棚に納めていた時、作家の高橋源一郎さんが「自分ほど小説が好きな人はいないだろう」とどこかに書いていたことを思い出した。なんと言うかそれはおぞましいことであると感じる。日本文芸界の第一線にいながら、それでもまるでそれだけが自分の唯一の美点とでも言うかのように、「これだけははっきりと言える」というような感じで、自分ほど小説が好きな人はいないだろう、と主張できる。果たしてどれ位の既読本があってそんな風に言えるのだろう。どれ位の未読本を買い込んだのだろう。

 

 高橋源一郎さんは吉本ばななさんのことを、太宰治のマネを遺伝子レヴェルで成功した人、と言っていて、いずれはそんな風に観れるようになるのか、小説を、と喜びとともに驚いた。

 これは音楽に対してでもそうで、(作曲をしている方に多いだろうか)一つの視座として、この作家(作曲家)は誰々の手法の影響を受けている、だとか、そういった事を指摘できる人がいる。プロフェッショナルなら当たり前なのかもしれない。僕の周りにも当たり前のようにそんな視座を持って作品を受容する人は沢山いるのかもしれない。

 作品を嗜む万人に必然な視座では勿論ないのだろうけれど、何かを作る側の人間として、表現する側の人間として、ゆっくりと養っていかなければならない視座だと感じる。今の僕は小説を読んでも、ほとんどわからない。そもそも、作者が真似しているその誰かの本を読んだ事ない場合が多いのだろう。

 ふと思い当たって僕が書いてきた恥ずかしい諸々を引っ張り出してみると、面白いもので、真似できてるとは到底言えないまでも、明らかに影響を受けている文体が見受けられる。読んできた本が露骨に見て取れる。脳内警察が稚拙すぎるパクリだとサイレンをあげている。僕も逮捕されて然るべきだと思う。堀辰雄村上春樹が染み込んでいる文章ばかりだ。三島由紀夫を随分と読み込んでいた時期のは全くその美しさを真似できず不恰好過ぎる書き物して残っていたし、高校時代に駆け抜けた西尾維新の影響が比較的最近のでも残っている。最近では川上弘美の文体を真似しようとしたりしているみたいだ。

 文体は内的な部分とつながりを持ってはいるだろうが、少なくとも現れとしては外的なものだ。思考している言語と作品として外側に放たれる言語は間接的な繋がりを持つだけで、遠い次元のずれのようなもので隔たりを持っている。頭の中に流れるイメージと楽器の出す音が直接には結びつかないように。だからかなりの程度養えるものなはずだ。技術的なものとして、ありていに言えば、自分の努力次第で、才能如何の問題とはまた別に。

 僕はこれからどんな人物のどんな文体に出会えるのだろう。どんな風に変わっていけるのだろう。読んでいない読みたい本だらけの本棚に、どれだけの未読本が納まるのだろう。

 勇気を出してゴメンと財布に謝りながら買ってしまった未読本の数だけ、そんな伸び代が見えるような気がして、懲りもせずまた古本屋に出掛ける。