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Here Comes The Sun and I Say

タルイのブログです

又吉直樹『劇場』

 自明のことかもしれないが、又吉直樹は物語作家ではない。何故なら思考言語と小説言語の「次元のずれ」が余りにもないからだ。

 又吉さんといえば何と言っても『火花』だ。『火花』は主人公が師匠と呼べる先輩芸人と出会い、彼の「伝記」を書きながら触発され、芸人の道を進んでいく、というプロットがあり、一つの物語として読むことができるが、少し穿った見方をすると、「エッセイの寄せ集め」だとも言える。

 『火花』が出る前に刊行された『第2図書係補佐』や『東京百景』などを読むと、『火花』に出てくる色んなエピソードがそのまま彼の過去体験であったことが分かる。物語中盤にあるベージュのコーデュロイパンツをダサいって先輩の前で言いまくったら先輩の家で買ってあるベージュのコーデュロイパンツを見つけた話など、すべてそのまんま自分の過去の体験なのだ。

 (穿った見方はもう少し続く)又吉さんは、言うなれば、自身の人生で出会った「すべらない話」を物語の流れに乗るような形で編集し、『火花』という作品にしたと言える。其処には又吉さんがいて、他の誰でもない。その有り様はひどく直接的だ。

 頭の中で考えている時の思考言語は、理性的であろうとすればするほど回りくどく文字数の多い面倒臭いものになる。物語作家、という職業は、音楽でいう「音」、画家でいう「絵の具」のような感覚で「文字」を扱うべきだと思う。一つの現実世界と対応する「表現」と小説がなる為にそれは必然的なことだ。

 しかし人々は考え事を言葉で行うから、その頭の中の言葉と物語に使われる「文字」が混同しがちだ。職人的な物語作家にはそういうジレンマとの闘いが常にある。例えば現代の日本物語作家の代表格である村上春樹は、その混同を起こさないように、超感覚的なメタファーや、特徴的な語り口調を用いて、両者の「次元のずれ」をはっきりと(かなり極端なほど)認識させる。

 対して又吉さんはその混同をやめない。おそらく意識的に、意図的に思考言語をそのまま小説に持ち込んでいる。

 先日の2017年4月号の新潮で掲載された新作『劇場』は、そんな又吉さんの思考言語の直接攻撃がうんざりするほど長く、体に刺さってきて痛いわ、という印象を持った。劇の脚本家を志す主人公と道端で出会った女性との恋愛小説、という一つのプロットを持ってはいるが、その女性のことも『東京百景』にすでにエッセイとして書かれている。冒頭から兎に角長く小難しく同じようなことを回りくどく考え続ける主人公。中盤のメールのシーンなどは読んでいてこちらが恥ずかしくムカついてくる。頭の中で言葉がぐるぐると回っていてどれを取り出していいかわからない時に、そんな自分が嫌でノーフィルターで全ての言葉をばら撒くと、すぐに死ぬほど恥ずかしくなる。そんな経験を主人公は何度も繰り返す。

 『劇場』の思考言語の直接攻撃は有り体に言って読み手をうんざりとさせる。同時に何かを裸にされる気がして、世の中が嫌いになっていく。人によってはそういう自分から目を遠ざけて鼻で笑い、軽蔑するだろう。或いは自嘲的になるかもしれない。

 

 又吉さんは、『夜を乗り越える』という新書で太宰治の自殺について、「たまたまその日の夜を乗り越えられなかっただけだ」というようなことを述べていた。そして自分は文学に「今日を生き延びる力」を貰っている、と。彼の根幹はここにあるように思う。「死にたくなるような夜が来た時に、どうしようもない孤独が体を包んだ時に、「とりあえず、今日くらいは生きておこうか」と思えるもの」これが恐らく、又吉さんにおける「文学」の定義なのだ。だからこそ、テレビで引っ張りだこの「ピース又吉」もこんなんなんすよ、と、思考言語をあえて裸に出しているのではないだろうか。

 又吉直樹を通して、僕らは、テレビの前にいる人間が、舞台に立つ人間が、ただの自分と同じしょうもない奴だということを思い知る。ネットの書き込みに傷つき、しょうもない間違えをし、本当に面白いと思っていることが評価されない毎日が続くのはテレビの前の人間も変わらないのだと。「ピース又吉」の思考言語がそのままに放り出された場所で、共感とともに、テレビの中の又吉直樹が僕らの前に裸で降りてくる。あるいは、又吉直樹が僕らを裸にして舞台裏に連れていく。

 そんな風にして綴られる小説の中で、彼は急遽ニヤッと笑って(或いは無表情のままで)、スッと、感情を届ける一流の芸人に成りかわる。取り繕ったような物語の筋だとしても、自分のエッセイ風にまとめあげた体験をそのまんま紡いでいるとしても、又吉さんは、一人の芸人として、人間として、その「スッ」という瞬間を届けたかったのだと思う。『花火』の「スッ」が行われた終わり方について、作家の西加奈子さんは「私は、昨今の文学界で一番美しいラストシーンやったと思います」と述べていた。『劇場』の最後の数ページでも『火花』と同じような「ラストシーン」が行われる。思考言語にうんざりした分だけ、自分にうんざりした分だけそこにスッと現れる「劇場」は尊いものになり、裸になった僕らに、笑いと、ありったけの人間的な優しさを与える。

 そして、昨今の文学界で一番美しい終わりをみた僕らは、とりあえず、今日ばかりは、生きてみようかと思える。

 自明のことかもしれないが、又吉直樹は物語作家ではない。彼は紛れもなく、一流の芸人である。