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Here Comes The Sun and I Say

タルイのブログです

九井諒子『竜の学校は山の上』

 九井諒子という漫画家がいる。彼女の漫画には大きな特徴がある。どの作品も「ファンタジーの新たな視座を模索する」というコンセプトを持っているのだ。羽が生えた天使が学校に通って進路に悩んだり(東京は電線が多くて飛びにくいので留学を考える)、人魚の出る街に住む青年が「人魚の人権問題」について悩んだり(人魚の売春問題や人魚を殺したら殺人罪になるのか、など)、勇者が魔王を倒したその後酒に溺れていったり(魔王がいなくなると今度は人間たちが争うようになり、勇者は自分と仲間の死の価値がわからなくなる)。彼女は(主に)RPGゲームが生み出したある種の「決まり事」を共有している読者に対して、その暗黙の了解から展開されるユニークな視座を模索する。現在連載中の『ダンジョン飯』も、RPGゲームの中にある魔物達が住む「ダンジョン」の中で魔物達を材料に料理を作って生活する、という独特の視座がコンセプトになっている。

 彼女が2011年に出版した「竜の学校は山の上」という作品集の中に入っている、表題作『竜の学校は山の上』もまた、「ファンタジーの視座の模索」として見ることができる。今の日本に竜が生きていたらという設定で描かれたその作品の中で、主人公は「竜学部」に入るために田舎の山の上の学校に進学し、そこで「竜研究会」というサークルに入り、竜の活用法について部長や部員たちとともに模索していく。ある時は竜の卵を目玉焼きにしてみたり、身体中の部位を使って鍋を作ってみたり、愛玩動物としての可能性を考えてみたり。そんな毎日の中で、部長が口にする「利用価値」や「インパクト」という言葉に、主人公は段々と違和感を覚える。「利用」や「インパクト」という実利的なものでしか竜の魅力を表せないのか、と。

 同時に主人公は、世間の人にどれだけ竜が必要とされていないかを思い知る。RPGの世界では活躍できるのに、自分はこんなにも好きなのに、世間は竜を役に立たないものと思っている。大学で学んでいる専門的なものに、世間の人がどれだけ興味がなく、また、今の社会で必要とされていないのかを思い知る。でも、そういう世間に対して、反論することの出来る具体的な言葉が思いつかない自分に、嫌気がさす。少し、分かるような話だ。

 物語の終盤、主人公は部長に悩みを打ち明ける。

「竜なんか役に立たないから大切にする意味はないって言われても反論できない気がして…香野橋部長はどうですか/そう言われたらどう返しますか」

 すると部長はこう答えるのだ。

「世の中にはな_ふたつのものしかないっ」

「役に立つものと/これから役に立つかもしれないもの/だっ」

「なくしてしまったものを/あれは役に立たなかったってことは言えるけどそれは所詮狐の葡萄/だから簡単に捨てちゃいけないんだ」

「でも役に立たないと諦めたら/それでは捨ててしまうのと何も変わらないだろ」

「私は自分のやることに自信を持ってるつもりだよ」

 世の中には役に立つものと、これから役に立つかもしれないものしかない。竜は現在こそ利用価値がないかもしれないけれど、だからといって、可能性を探すのを諦める、ということにはならない。部長は力強い言葉でそう彼に告げるのだ。

 

 部屋の中にあるガラクタを整理することは重要である。歴史の重要な流れを覚えることは重要である。人生には限りがあるのだから、「今役立つこと」を選抜して「今は役に立たないこと」を生活から、覚えるべき歴史の事項から切り捨てることは絶対に必要だ。

 でも、じゃあ「今は役に立たないこと」は全て要らないのか。幾ら要らないと言い切ろうとしても、部屋の奥にしまってあった幼い頃遊んだおもちゃだとか、歴史の中でもみ消されてしまった無名の音楽に心を揺さぶられることが誰にだってあるはずだ。

 「もしかしたら役に立つかもしれない」という感情は、「今役に立たないから」という真っ当な理由で押しつぶされがちだけれど、主人公が空を飛ぶ竜のことを美しいと思うように、自分にとって「役に立つかもしれない」と思えるものがあるなら、それを美しいと思うなら、自信を持ってそれを信じていいのかもしれない。

 今は何にもならなくても、世間の役に立たなくとも、探し続けていれば、いつかは何か誰かの役に立つ。そんな奇跡を願い、信じろと、部長は言っている気がする。

 そして部長の美しく爽やかな顔を見ると、そんな「いつかは役に立つかもしれない」を信じることこそが、毎日を幸福に生きる糧になるのだと、九井諒子が言っているように思えるのである。