向こう側の街

 この街に移り住んで半年が経った。

 生活には少しずつだけれど慣れてきている。時計塔のことも、魔法の唐揚げが揚がる時間帯のことも、学校のことも、少しずつだけれど、分かってきた。

 今日最初の伸びをして、布団からゆっくりと足を下ろし洗面台へ向かう。狭めの洗面台で夜を落とすために顔を洗い、歯磨きの音でいびきを忘れる。体が今日に馴染むまでのしかるべき工程を、僕はゆっくりと、しかし着々と整えていく。今日も比べる対象が思いつかないほど清純な朝で、カーテンは「こんな風になりたかった」と夢見心地で揺られていて、それらの夢を壊さないようにベランダへすりぬけると、電信柱に寄りかかるさち子が見えた。さち子はくるくると先の丸まった髪に人差し指を絡ませている。あくびをしたそうなとろんとした目で、彼女はどんな味の退屈を食べているのだろう。

 僕は今日最後の伸びをしてしっかりと制服に身を包む。少しだけ急ぎ目で外に出ると、僕とさち子の間には突然の風が吹き、Aのコードで夏の匂いが過ぎ去った。

 

 電車はすいすいと海面を行く。僕らは窓の外を何の気なしに見遣る。飛び込みの練習をしているペンギンと指導教官のユリカモメと、キラキラとはしゃぐフラミンゴ達が海の光の粒の中で輝いて見える。

「数学の教科書、忘れてきちゃった」

「それなら貸してあげる」

「でも、わからなくなっちゃうでしょう」

「前の学校でやったんだ」

「そう」

 つり革が揺れるたびに、僕らも同じように揺れる。至る所に貼られた広告は今日も感動と啓蒙を安く売っている。ぎいこ…ぎいこ…。お兄さんが手に持っているブリキのヒーローの後ろに付いたネジを巻いていた。

「何をしているのですか」僕はお兄さんに聞いた。

「生活のネジをまいているのだよ」お兄さんは思ったより力強い声で答えた。僕にはなんだか彼が無理をしているような気がした。

 

 アナウンスが電車の到着を告げる。僕らは反対側のドアの前で降りる準備をする。さち子は足元に気をつけて電車から降りる。学校へと続く改札口の前方で、二人の少年がホーム端から釣り糸を垂らしている。

「よく水色のイワシが釣れるのよ」さち子は彼らを見て呟いた。