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L'après-midi d'un faune

タルイのブログです

アパート

 感情が心から生まれるとしたら、心は一つのアパートみたいなものだと思う。こうなりたいという願いや、どうしても堪えられない欲望や、悪癖など、それらは心の中でアパートの住人となって、各々の部屋で過ごしているのだ。この感情は301号室、この感情は203号室、とか、そんな具合に。この感情の髪型はどんなだろう、とか、この感情は、化粧品にお金かけてるだろうな、とか、そんなことを考えると、何だかちょっとおかしい。問題児もいるだろう。家賃を延滞する奴もいるだろうし、出て行く奴も、入ってくる奴もいるだろう。

 感情を自分のアパートにきちんと住まわせておくには、それらを言い当ててくれる「表現」が必要になると思う。言葉でも、音楽でも、絵画でも、行動でも、何かしらが働きかけてくれないと、僕らは感情を忘れてしまう。忘れられた感情はアパートに住んでいながら、引きこもりになってしまったり、謎の死を遂げてしまったり、暴れまわって壁に穴を開けてしまったりする。

 

 子供っぽさから卒業しようとした時期がある。ぼうっとここではないどこかのことを思ってはしゃぎたくなるほど楽しい気持ちになったり、どうしようもない孤独を感じたり、卑猥な気持ちになったり、あるいは、死ぬことが怖くなったり。そんなことに時間を費やすのを、もうやめようと思った。もう大人になるのだから、と。そんな時間は無駄であると執拗に言い立てる世間の流れみたいなものが確かにあって、そんなの只の中学生特有の病だよ、結局承認欲求だ、性欲だ、若さだ、死への希求だ、と切り捨てる言葉があって、それを賢いとする流れがあって、そこに乗るためにはこの感情にはアパートから出て行ってもらわなければ、とそんなことを思った。けれどなんだか名残惜しくて、何か大切なものがあるような気がして忘れきれずに悶々とする。

 そんな毎日の中で、或る日学校帰りに立ち寄った古本屋の店頭に、一冊の詩集を見つけた。10歳年上の女性の、綺麗な黄色の詩集だった。

 

私達のこのセンチメンタルな痛みが、疼きが、

どうかただの性欲だなんて呼ばれませんように。

昔、本で読んだ憂鬱という文字で、かたどられますように。

夜のように私達の心は暗く深く、才能豊かであるように。

くずのようだと友を見ています。

軽蔑こそが、私達の栄養。

 

最果タヒ:文庫の詩(『死んでしまう系のぼくらに』より)

 

 彼女がふらっと心のアパートに立ち寄って、「憂鬱」が引きこもっている部屋の鍵を渡してくれた気がした。彼女のアパートの憂鬱と、ぼくの部屋にいる憂鬱は少し種類が違うだろう。それでも確かに、誰かの個人的な言葉が、もう一人の個人的な感情に、届く瞬間はあるのだ。

 あった、あったぞ、と走りながら階段を上って部屋の鍵を開けに行くと、今にも消えそうなほどやせ細った感情が、「遅いよ」と力なく笑った気がした。

 今の自分はその感情と、多分一番仲がいい。