「君の名は」について

 チャゲ&アスカで言うところのアスカの方が再逮捕されかけた話をアスカさんが釈放されてから知った世間離れした僕でも「君の名は」はみた。一度とならず二度見た。新海誠さんのことが前々から好きだった。100円で買った漫画版「ほしのこえ」を皮切りに、「秒速5センチメートル」だとか、「星を追う子ども」だとか、「彼女と彼女の猫」だとか、そしてなにより「言の葉の庭」だとか、特に「言の葉の庭」はかけがえのないほどに、好きだった。

 新海誠さんとは将来お話できたらいいな、と、漠然とおこがましいことを思う。身勝手なそういう思いを色んな人に抱いて生きてきた。椎名林檎にも、松本大洋にも、村上春樹にも。誰しもがそうなのかもしれないけれど、少なくとも自分にとって、いずれはそういう人たちと出会える存在になりたいというのが、ささやかな、けれども非常に力強い、毎日を生きる糧になっていたりする。新海誠村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に影響を受けたと述べている。村上春樹のことはいつかきちんと自分の中で整理したいと思うけれど、今までの人生の中で最も影響を受けた人は、と聞かれたら間違いなく村上春樹と答える。そして春樹の諸作品の中でも、最も多面的に影響を受けた本が、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』なことは間違いない(好きすぎて英語版とドイツ語版とフランス語版を持っている)。つい先日進路相談に母校へ行った際、現代文の先生が新海誠のことを「ポスト・村上春樹」と繰り返しおっしゃっていて、もし何かを書くのなら、自分がどういう時代に生きているかということを意識しろ、ということを強く仰ってくれた。「ポスト・村上春樹」の僕らが何かしらの世界を思い描く時、やはりその構図には前提として春樹的な世界の混じり合いとすり替えがある。ポスト・ワーグナーの芸術家たちがどうしてもワーグナーの影響を少なからず受けたように。多分僕だけじゃなかったのだろうけれど、新海さんの「物語」を組み立てる方法には、言語化できないある種の「同質さ」を深く感じた。「君の名は」は、そうだよな。そういうロジックだよな。という同感で溢れていた。世界をすり替えるとして、そうしたことを論理の外で(フィクションとして)行おうとする場合、もう僕たちは村上春樹的なロジックを意識せざるを得ないのだろう。

 あと一つ、新海誠さんについて思うのは、音楽を情景的に聴いてきた人なんだろうな、ということだ。自分にとって何か特別な感情を揺さぶるような音楽に出会うと、それは多分新海さんの中で、一定のノスタルジーを伴いながら、自分の中の妄想として、一つの世界観を作り上げる。音楽という時間芸術が、一つの個人的な空間を、内包することになる。そんな感覚があるからこそ、音楽と場面が重層的に展開する世界を描いているのだと思う。少し、わかる。

 自分が何かしらを思い描く時、その発火剤には大抵音楽があった。ポップスでも、クラシックでも、思い返してみれば、常にテーマとなる音楽が自分の創作的文章にはあった。音楽は僕にとって、一つの世界観を持った宝箱のような一面がある。今はそんな風な受け取り方以外にも少しはできるようになったけれど、人生で最初に好きになったクラシックの作曲家がドビュッシーだったように、作品が描く情景というもの、その世界観の中に浸り、「ここではないどこか」へ思いをはせることは、今も音楽体験の一番の源となっている。

 

 「君の名は」をみた友人が、「音楽がイマイチなあ」と言っていて、その感想に、ある面でとても共感した。「君の名は」の中には複数の挿入歌があって、それらは全てRADWINPSさんが担当しているのだが、その音楽が悪かった、という話ではなくむしろその真逆で、RADWINPSの音楽は明らかに、歌詞を強く持ちすぎていた。そればっかりは、批判でもなくただの感想として、きちんと思い返したい。音楽と世界観の関係という面から、少し考えてみたい。

 物語の要所要所で流れるRADWINPSの音楽は、美しく世界を彩っているように思える。けれどそんな彩りとなるには、あまりに考えられた歌詞すぎた。例えば「まどろみの中で 生温いコーラに ここでないどこかを 夢見たよ 教室の窓の外に 電車に揺られ 運ばれる朝に」という歌詞があって、とても格好の良い歌詞だと思うけれど、いくらか丁寧に紡ぎすぎて、映画の美しい世界と並行して受容するには、文法的にも取りにくい。そんな箇所ばかりで、きちんと音楽だけを聴きたいとなんども感じた。音楽それ自体が、言葉遊びや詩的な並び替えをたくさん行っていて、十全に「君の名は」という物語を伝える媒体となって(しまって)いる。

 今回は新海さんとRADWINPSが綿密なやり取りをして音楽を作ったと聞いた。今までは既存の曲に一方的に持った個人的な世界観を新海さんが描いていた。だから劇中でアニメーションと合わせても混ざり合うことはなかった。あくまでアニメーションとは違う何かを思い作られた誰かの音楽と、新海さんの個人的な世界観が重層関係になっただけだから。しかし今回は寄り添いあいすぎて、お互いがお互いのことをよく知りすぎて、補完どころか相殺してしまっていた。結果的に観客の大半は情報過多に陥り、RADWINPSの美しい歌詞を、情報として捨てざるを得なかった。言い方は悪いけれど、それらは部分的に、雰囲気作りのBGMに成り下がっていたとまで思う。

 けれどどうなのだろう。RADWINPSの劇中歌を聴けば、今も映画の世界観そのものを思い出し、浸ることができる。楽曲だけになると、綿密に考え込まれた歌詞が、物語世界を、ある意味、映画で見ていたよりもずっと、個人的な感情を付与して、思い起こさせる。だからそれでいいのかもしれない。映画は素晴らしかったし曲自体も素晴らしい。だから相殺していいのかもしれない。わからない。

 

 少なくとも言えることは、音楽に個人的な世界観を持ち、それを作品にすることをここまで率直に行っている人がいることが、自分の音楽体験の仕方に一つの「確かさ」を感じさせてくれていることや、例え縁結びの効用があるとされていた「君の名は」を見た次の日にマイ・ガールフレンドとお別れしてしまったとしても、僕の「君の名は」が好きな気持ちは揺るがないということだ。

 「君の名は」には賛否両論ある。否の矛先は主に終わり方に向けられる。「いや、平和的すぎるだろ。」そんな風に思うことはできる。「え、なんや、お子様アニメやん。」言おうと思えば言える。けれどそんなことより、「すれ違って行く二人」という命題にここまで執拗にこだわり続けた新海誠が、誰もが無駄と思えるような、もうその命題については一通り考えたし、どうしようもないから次いこ、と通り過ぎてしまうような命題にこだわり続けた新海誠が、その執拗さの果てに、こんなに美しい、彼にしか描けない物語を紡ぎだした。その奇跡に一先ずは、涙を流していいはずだ。

 もっとも、僕の涙のもう一つの訳は聞かないでほしいが。