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Here Comes The Sun and I Say

タルイのブログです

セーラー服とフランスパン

 最近、昼食が必要になると、実家から駅へ向かう途中にあるパン屋さんで買うようにしている。明太子を中に塗ったフランスパンがとても美味しいのだ。こんがりと焼け上がったフランスパンを一口かじると、ふんわりとしたパン生地の隙間から溶けたマーガリンと濃い味の明太子が染み入るように流れてくる。一本まるまる食べるのには顎の力が必要で、いつも最後の方はひいひい言いながら食べるのだけれど、次の日になるとまた食べたくなる。もしかしたら僕は、あと数年で何でも食べることのできる筋肉質な顎を持っているかもしれない。そしたらフライパンを食べて「パンはパンでも食べられないパンは」の反例を示してやろう。東京にフライパンを食べる大学生あり。よってこの命題(正確には、なぞなぞの答え)は「偽」である、と。(くだらない)

 そのパン屋さんではカウンターの後ろがパン工房になっていて、焼きあがり次第商品がそのまま並ぶことになっている。パンが焼き上がるとお決まりのフレーズが始まる。「◯◯パン焼きあがりました。いかがでしょうか〜?」と一人が言うと、「いかがでしょうか〜?」と全員で復唱するのだ。

 お昼時はかなりのペースで焼き上がるので、店員A「いかがでしょうか〜?」全員「いかがでしょうか〜?」の流れに少しばかりのマンネリズムが見えなくもない。もう、「いかがでしょうか〜?」と聞こえたら「いかがでしょうか〜?」と返せば良い、と各々が体にインプットして、半ば機械的にこなしているようにしか見えないのだ。もしここで「明治天皇、目いじってんのう。いかがでしょうか〜?」とでも僕が言えば「いかがでしょうか〜?」と復唱されるのだろうか。試してみたかった。胸は高鳴った。けれど、よく見ると(またよく聴くと)、店員は全て女性だったのである。男性がすんなり出すことのできない音域で「いかがでしょうか〜?」は行われていた。僕がその音域で「いかがでしょうか〜?」を投入した場合、かなり不自然な声色となるだろう。店員でもないやつが「いかがでしょうか〜?」を投入したと知れただけでも恥ずかしいのに、それが「明治天皇、目いじってんのう」という少しだけマイナーな、けれど決して公の場で放つべきではないような駄洒落の付随文句だとしれたら、僕の社会的立場は齢20にして終わってしまうのではないだろうか。

 この時漠然と思ったのである。僕が女だったら、と。

 

 そもそも前々から女になりたいと思う瞬間はあった。決して恒常的に思っているわけではないし、そもそも男でなかったらできなかったことが沢山あったから今更どうというわけではないのだけれど(だからジェンダーだのなんだのデリケートな話では全くなくて一つの妄想の延長なのだけれど)、女だったら…と考えることがある。

 何より思うのが「女子高生」になれた、ということだ。人生の一部分でも、「女子高生」に自分がなるというのは、一体どういう気持ちなのだろうか。

 僕にとって(そして恐らくは少なからずの男子にとって)、「女子高生」は一つの符号である。「女子高生」の髪が靡けば哀愁があり、「女子高生」が友達と話していれば秘密があり、笑っていれば希望があり、叫べば世界が変わり、そして走れば青春が始まる。これはアイドルがトイレには行かないとかそういった妄想と同じような幻想であるということは百も承知だけれど、でも、日本のアニメーションや漫画にどっぷりと浸かってきた人間からすると、「女子高生」は一つの符号として、一つの憧れの形のように見えてくる。それこそF1レーサーや、サッカー選手や、ウルトラマンと同じように。

 そしてまた、日本のアニメーションや漫画を見て育ってきた女性は少なからずいるはずだ。自分がその、テレビの中にいる「女子高生」となる日が来るのだということを、なった日があったということを、どのように受け取るのだろうか。実際の女子高生の多くは、有り体にいう「ドラマみたいな」青春劇に関わることなどないのだろう。もしかしたら女性たちの多くも、「女子高生、いいよね」と言っているのかもしれない。間違いなく言っているだろう。でも僕が言うのとはわけが違う。もし仮に僕が「女子高生、いいよね」と言われたら、「左様ですか、しかしながら小生はこのショーペンハウエルを読まなければいけないので、フムフム世界苦とはつまり…」とかしこまらなければいけない。他ならぬ女子高生に気持ち悪いと言われないために。

 

 すなわち、「時すでに遅し」である。