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L'après-midi d'un faune

タルイのブログです

そればっかりはのび太も出来杉君も変わらない

 坂口恭平さんは子供の頃に、「この世界にはみんなが同じことをやる「学校社会」と、各々がそれぞれのことをやる「放課後社会」があると気づいた」らしい(『独立国家のつくりかた』より)。現象に名前をつけるのが好きだという坂口さんは、ネーミングセンスの優れた方だと思う。「学校社会」と「放課後社会」。とてもいい響きで、わかりやすい。

 「学校社会」とは世間的な価値観に満たされた場所で、みんなと同じスケジュールで、単一の価値観の下に行動し、評価される場所だ。対して「放課後社会」は、各々が独自の価値観を持ちながら、好きなように、個別的に活動する場所だ。

 昔から放課後が好きだった。放課後のために学校に行っていた。僕は「学校社会」がもつ単一の尺度が人を判断するのを苦手に思っていたし、全く授業を聞かず、態度が極悪なクラスメイトでも、放課後に見せるドロケーの足の速さや、ゲームのうまさや、或いは他人に見せる屈託無い優しさだとか、それぞれの良い所が存分に発揮される「放課後社会」が大好きだった。わからないけれど、多分子供って基本的に、授業より放課後が好きなはずだ。そればっかりはのび太出来杉君も変わらないのではないか。

 ところで芸術表現は、「放課後社会」で自らの価値観を探訪し続けた人の為す、ひどく人間的な行為のように思う。「放課後のキング」それこそが芸術家の異名なのではないか。

 僕は高校生の頃から、芸術家という不確かな括りの中でプロフェッショナルとして生きていきたいという意識があって、故に、「放課後のキング」となるために、計画的に、放課後をまるで学校みたいにスケジュール管理してしまう癖があった(そしてその傾向は大学に入ってから加速度的に目立ち始めた)。これを何時間、これを何時間、それを何週間続ければ大丈夫。キングになれる。みたいな。この大丈夫、という感覚が昨今の大敵となっている。

 「学校社会」のもつ価値の一つに安心感があると思う。「学校社会」でしっかりと生きることは安心に繋がる。そこではある程度普遍的な価値観が流れているし、偉い人が決めたスケジュールの中でしっかりと行動すれば、確かな学力がつくように仕組まれている場合が多いから、「とりあえずこの波に乗っておけば大丈夫」ということになる。僕が大学受験のために塾の望む生徒に一年間なりきったように、外的なレールの中で行動すれば、ある程度の場所まで世間は連れて行ってくれたりする。

 しかし「放課後社会」はそうはいかない。「放課後社会」は不安でいっぱいだ。誰かが決めてくれるものでもなく、これさえやれば大丈夫、という安心感は本質的に存在しない。何が起こるかわからない。どこから何が出てくるかわからない。近づいてくる夜の訪れに合わせて、不安と好奇心が増していく。

 僕は多分、「放課後社会」をスケジュール管理して、一ヶ月に何冊の本を読めるだとか、どれくらいの文字をかけるとか、そういうことができる自分に、真面目だとか、真摯だとか、そういうレッテルを張ることでどうにか、不安な将来を安心させていたのだと思う。「放課後社会」がもつ、不安を、そして好奇心をも振り払っていたのだと思う。暗くなった外が怖くて教室にこもってばかりいる。そんな風にして手にしたものは、「放課後社会」を自分の擬似的な「学校社会」にしてしまった僕が手にしてきたものは、本当の所、価値のあるものなのだろうか。

 計画的に放課後をすごすことには長所も短所もあるのだろう。将来僕は、めちゃくちゃにマネジメントされた毎日を生きているのかもしれない。それはわからない。けれど少なくとも、マネジメントされた毎日が持つ安心感に浸っていた僕の感性は明らかに鈍い。「〜〜を読んだ」という事実を追い求めてばかりいた僕の、その本がもつ世界を探求する力はひ弱なままだ。

 無計画になるには勇気が必要だ。放課後の夕暮れの中で目一杯、後先考えずに泥まみれになったあの日の僕を、怖がって、どこかに忘れていた。

 家に帰れば怒られるとわかっているのに楽しくて仕方のなかったあの日々を、大人になったふりをして、忘れてしまっていた。