表面だけを板とパイプでこしらえた城みたいに

 作家の中村文則さんが、「純文学というものをたくさん読んだ人には、自分の中に自然と海のようなものが出来上がる。」というようなことを言っていた。そういう海を持った人の書く文章や、成すことは、全て一度その海を通過するから面白く味がある、というような話だ。ほんまにそうやな、と関西人でもないのに思った。

 本を読むという行為は他人を想像するという行為と不可分で、純文学の場合は殊更そうで、知らない誰かが見たこの世界の知らない風景に、ある時はひどく共感しながら、ある時は目新しいものとして驚嘆し、少しの違和感を覚えながら、その世界を覗いてみたりすることが出来る。読書の大きな醍醐味の一つだと思う。本を読むということは見方を学ぶということで、他者の見方を知るということで、それは突き詰めるとどんな媒体の作品でも(絵画でも音楽でも、なんでも)同じような一面を持っているものだけれど、やはり本は文字であるだけに入りやすかったりする。

 それを踏まえた上で、いざ自分で何かを書いてみようとすると、面白いくらい何も書けない。絶対的に読書の量があまりにも足りない。いや量より質だよ、とか、そこは若さで補って、とか、いやいやいそんな話ではなくて、単純に自分の書く何かは、まるで表面だけを板とパイプでこしらえた城みたいに、僕の全く知らない視座を持った誰かにとっては、ただのハリボテでしかないことを見破られてしまうのだろう。

 ただ、ハタチの僕は、これから社会に出るにあたって、何かしらのことを文字に書いて生きていきたいと疑いなく思っている。それは方々で言ってきたし今も変わらない。いや、前はバリッと新人賞とって作家デビューを意気込んでいた。元気だった。作家にはなりたいけれど、僕の海はまだ、小雨が作った水たまりくらいなもので、もうそんな威勢のいいことは言えない。ただ純粋な一文を書くとすると、文字を書くのが好きだ。本当に。

 

 仕事と聞くと逃げ出したくなってしまう。何を隠そう全力で延命を図るモラトリアム真っ最中の大学二年生である。ただ最近気付いたのが、これは多分アップル社の漢字変換機能が悪くて、「しごと」の第一変換候補として「為事」と置いてさえくれればモラトリアム・パーソンも逃げずに話くらい聞いてみようと思えていたかもしれない。この人生で僕が為すと決めた事、それが「しごと」だというのなら、水たまり程度の僕の海を恥ずかしく思いながら、板張りの城で背後からの目線にビクビクしながら、それでも精一杯、「しごと」だから、という身も蓋もない理由で、パイプで出来た足場でバランスをとり優雅にお紅茶を啜りたいとも思うのだ。誰かに自分の裸になった未熟さを見られてしまうのは、なんというか、本当に億劫だけれど。

 ちっぽけな水たまりの中にハリボテを立てて、ある程度の諦観を胸に、アールグレイにお砂糖を一杯。