継続

 継続は力なりというけれど、継続以外では力など手に入らない、とすら感じる。

 なんらかのものを習慣化し、継続していくと、「気にしなくてもできる」という段階に達する。所作が無意識化する。その現象は、言うなれば、身体のもつ「自然」という状態を開拓するということで、「こうしてると楽なんだよ」という精神そのものに付随する感覚の変容である。おそらく認識しやすい例が納豆で、僕らは、日本人の血を持っているからというよりむしろ、朝ごはんでネバネバをかき混ぜる習慣の継続によって、「おいしい」という「自然」を開拓している。勿論、納豆を嫌いな日本人を僕はたくさん知っているし、僕自身、あんまり得意な方ではないのだけれど。

 外的な知識は、面白いくらいにすぐに忘れる。それは外的な筋肉がすぐに衰えるのと似ている。僕はえげつない位の記憶力のなさを誇っているし、自分自身でもそれを促している節があるから、兎に角読んだ本の内容や、講義のプリントの中身だとかを、わずかな感覚を残して、全部忘れる。記憶の倉庫の中にいれちゃう。

 そんな風にして、なんにもない状態を作り上げることが、精神的な旅を行うための身軽さにつながっている(と僕なりに感じている)わけだが、「なんにもない自分」という状態の中で役に立つ力は、「自然」であり、それ以外の何でもない。

 

 自分の内的な世界を想像するとき、いつも海の中にいる。夜遅く、意識の冴えているときや、どうしようもない寒さの中にいるときは、深海の底の方に、逆に世界の表面だけが見えているときは、太陽の光が差し込むような場所にいる。海の底に死があり、海の上にも、結局はまた、死がある。

 最近の習慣は、もっぱら、最も心地の良い深さの場所で、どう毎日を過ごすか、ということにある。日常の中で、深度のちょうどいい場所の肌触りを「自然」な感覚へ無意識化しようとしている。それは何かを継続する為の精神作りと言える。なんにもない自分が持てる無意識化の力、大衆が才能や感性と言うものを会得するための日常。それを作るためのメタ的な「継続」。

 

 夢の影響だろうか。毎日の精神はころころと変わる。学校に行きたくない日もあれば、その逆もあり、食欲のない日があれば、性欲の強い日もある。

 身体のチューニングが必要なのだ。自分が日常を過ごすための、寝癖でどこかへ行ってしまった体の海中移動が。それは非日常を満喫する芸術家の方々にはない、日常を継続するためのチューニングだ。

 そのために僕は毎日ピアノとヴァイオリンを弾く。脱力の中で、精神的な安定と、身体的な連結を感じる。楽器を弾くための身体所作と、鋭敏な神経感覚などは、景色の変わらない大きな水溜りの昨日いた場所とほぼ同じ場所へ、静かに連れて行ってくれる。

 そうなれば僕は学校へ静かに向かうことができるし、昼ごはんも丁寧に食べられるし、朝から変な気待ちになることもない。

 

 死ぬことが決まっているとして、その日までどんな命を持って生きようか、なんて思考の中で、本当に必要な力は僅かであり、逆に、その力がなければ死ぬまで自分で居続けることはできないかもしれないだろうな、と感じる。その感覚を最も的確に表す言葉が、「やばい」である。これが「やばい」の正式な用法である。いやまじで。

 一生を生きる力は、例えば本を何冊読んだだとか、どれだけ練習したかだとか、そんな表面的なこととは全く次元を異にしている。手に入れる必要がある力は本当に数えるほどしかなくて、僕らが表面に見ている事のほぼ全ては、終わり次第倉庫にしまいこむものだ。

 本当に必要な力だけは、しっかりと身につける。そのための継続と、継続を可能にする土壌作り。終わらない始まりまで、あと多分、数年はあるのだから。