Section6 追い風 決意 小旅行(2)

  時間は過ぎてみれば一瞬のことで、振り返ってみれば、其処には、掠れるような儚さが暖かく残っていた。

 私の重大だと信じてきた一歩は、踏み出せてしまえば意外と呆気なく、それでも何か確かに、得たものと、失ったものと、届いたものと、見捨てたものがあって。リーダーがただ「やった」と呟くと、私たちは歓喜に燃え、大声を撒き散らし、次のバンドにほんの少しの(ほんの少しだ)迷惑をかけながら、会場へゆっくりと向かった。

 しかし、いざ舞台の熱が遠ざかると、頰の温度が外界と同じものになると、其処には大衆の前で裸になった自分がいて、私は彼らの前に今向かっていて、数瞬後には舞台上という場所以外で出会うと考えれば、それは何か、どうしようもないほどに恥辱的なことのように思えた。一度裸になった心が衣服をまとった人々と同じ場所にいるのが耐えられず、ちょっと本当に見ないでほしいと、私をそんな目で見ないでほしいと、縋るように外へ抜け出す。

 私の裸を見た人たちが褒めてくれるのは嬉しく、多分もっと素直になれば、単純にその褒め言葉は自分の支えとなってくれるものなのだろうけれど、唯々、今は受け付けられない。静かに、暖かな深海に浸っていたい。

 

 夜風は衣服の間を疾走して、じっとりと濡れた全身を洗い流す。

 終わった。私は亀裂を飛べたのだろうか。逃げてきた人生と、向き合える覚悟ができたのだろうか。途端に喉の渇きを感じ、それは急速に激しくなって、堪らずコンビニへと足を向けた。頰を切り裂いていく夜が心地よい。

 

 コンビニの前には、今見つけたのだ、と言わんばかりにとぼけた顔をした海星先生がいて「ミズキ」と軽く手を振っていた。

「こんばんは。」

「こんばんは。」

「帰りですか。」

「ううん。今から小旅行に出る。」

「小旅行?」

「うん。知らない街まで。」

「それは遠くですか」

「わからないけれど、兎にも角にも、ここではない、どこか」

 先生は微笑みながら私の返答を待っている。多分先生もまた、今の私の感情を知っていて、落ち着くまで逃げるしかないことを知っていて、その上で、この場所で、私を待ってくれていたのだ。

「先生、私も連れて行ってくれませんか」

「いいのかい?一人で先に出てしまって」

「はい。」

「ギター重そうだけど」

「それは先生が持ってください」

「自転車なんだけど」

「電車でいけませんか?」

「…はい」

 

「うん。」

 

 

「じゃ、いこうか」

「はい。」

 

 彼女は今日もまた、僕の前で、元気に笑う。

 僕は彼女と、どこまで行けるのだろう。

 

 

 まず海へ向かおう。彼女は多分手を後ろに組んで、足元に貝殻を探しながら砂浜を歩く。

 僕は離れていく感情を諦めるように、遠ざかる頭の中のきちんとした部分におざなりなばいばいをして、一番好きな歌のメロディを口ずさむのだ。

 その頃にはきっと、置いてきたものは忘れてしまっている。

 僕と彼女の間にはただ夜が横たわっていて、遠く向こうで輝く月は熱を帯び、海と空を溶かしている。

 

 胸をよぎるに違いない強烈なメランコリーを、彼女は笑うだろうか。俯くかもしれない。涙をこぼすかもしれない。叫ぶかもしれないし、黙ってしまうかもしれない。

 

 総武線には、彼女の僅かな寝息が、夢を見るように景色を淡くにじませている。

 気づいた頃にたどり着く、海の見える駅まで寝かせてあげよう。

 

 僕らの時間は暗闇の中を進んでいく。

 遠い街の彼方で、海と夜は繋がっている。

 

 僕は彼女と、どこへだって行けるはずだ。

 僕と、知らない街へいこう。

 

(終)