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タルイのはてなブログ

タルイのブログです

Section1 吉祥寺 塾 海の底(1)

1.

 ここではないどこかへ、なんて、ありふれた言葉はもう自分で唱え飽きてはいるのだけれど、それでも知らない街へ行きたいと、今もずっと、思っている。見たこともない街の誰も知らない夕暮れや、いつまでも解けることのない靄のかかった風景の中で、捉えきれない目新しさを感じたい。

 

 また世界には春が来た。それなりの一年を廻って、桃色の季節は再び悠然と現れる。僕はといえば、相も変わらず単調な毎日の中で息を潜めるように過ごしている。いずれ自分では制御しきれないほどのものが体から掘り出され、僕の創造的人生を開始させてしまうまで、淡々と生命をつないでいこう。面白いもので、その感覚は確かな必然性を持って僕の脳内をいつも駆け回っていた。いずれ必ず何かしら大切なものを書き出す人間であるということは、誰に言われるでもなく、おそらく誰よりも分かっている。これは或る意味義務と諦観とでも言うべき直感をまとった真理だ。ただ、それは今ではなく、焦ることもせずに、コツコツと文学賞への執筆を重ねながら毎日を繰り返すことしかできず、今に生きている僕はそんな風にして、春の始まりをいくらか億劫にやり過ごしていた。

 平日の吉祥寺はどこか暖かい。それは休日との相対で見た結果なのかもしれないけれど、独特の温もりが、平日のこの街には確かにある。バスだって、看板だって灯りだって、全て余裕を持って佇んでいる。真面目さも、追い込みも、緊張も、この街には不釣り合いだ。古本屋のヒゲの店主は深夜まで僕の来店を待つこともなく待っていて、並ぶことのない鯛焼き屋は少し無愛想ながら、お疲れ様という言葉で迎えてくれる。強いて故郷というのなら、僕にとってそれはこの街でしかなくて、そしてこの街にある暖かさを感じることができるようになったのは、二十歳になった後のことだった。