Portal 2-7 Kite

 10.

 陽は既に暮れかかっていて、線路下にまでも、躊躇なしに光を注いでいた。刷毛を手に持った僕らは、真白な壁を凝視しながら、あれやこれやと考えている振りをした。どちらかが何かを始めれば、それがどんな形だって、自分の描くべき形がわかるはずだ。だから相手が描き始めるまで待とう、とお互い考えていたし、イワンは無論、彼女が自分と同じように思っていることに気がついていた。

 5分ほど経って、ふと、遠くの方で「ピーヒョロ、ピーヒョロ」と、大きくトンビが鳴いた。

 イワンはそれを合図にして、刷毛を力一杯、白壁にぶつけた。水色が爆発し、体全体に降り注いだ。快感に笑う彼の背後から、駆け足で迫ってくる彼女のスニーカーの音が迫り、一瞬間右耳を通りすぎた。

 彼女は無心でバケツを抱えて、壁を彼女の世界に染めていく。僕はそんな彼女の世界を、ある時は強引に破壊して、未だ彼女の持ち得なかった形を提供していった。初めは自らの作り上げた世界に介入してくる僕を訝しんでいたけれど、少しずつゆっくりと、僕の世界を受け入れたようで。同じような世界で生きてきた僕らの、同じような造形は、しかしやはりどこかしら違っていて、彼女は、滔々と流れ込んでくる僕の世界と、手放すことのできない自分の世界の核のようなものとの関係性を、必死で模索していた。僕もただ徐々に近づいていけるように、彼女の笑顔の裏側を探るように、言葉を捨てて壁を埋めていった。

 大きな丸を描く。指先で伸ばして、滲んだら、端っこを重ねて、飛び跳ねて、浮かんだらそのままにして、そしてやがて、君と僕の世界は隅っこからつながっていく。

 トンビがもう一度高く鳴いて、同時に、風のように蜻蛉の大群が背後をすり抜けた。僕はふと刷毛を動かす手を止めて、ぼんやりと蜻蛉の行き先を眺めた。青い空には、トンビが、やはり今日も旋回していた。

 彼女は、鳥になれるのだろうか。

 あの黒鳥は今日も当たり前のように空を飛んで、僕たちを、軽蔑するように見下している。

 彼女は鳥かごに入れられた小鳥のようだった。

 しかし今背後でペンキを無心でぶつける彼女は、動物的な表現欲を今や隠そうとはしておらず、かけられた鍵はもう、強引に外れてしまっているように思えた。

 彼女は、鳥になれるのだろうか。

 もう一度問いかけたその時、肩を軽く叩くものがあって、ふと振り返れば、頬を不恰好に汚した彼女の姿があって。

「ありがとう」彼女は、ひどく人間味あふれる顔で笑った。

 僕はその温かさに、生暖かさに、どうしようもなくどこまで行っても彼女は鳥になれないと、確信よりも強い直感を抱いたのである。彼女も結局は、どう足掻いても、どう苦悶しても、人間としてこの世界で絵を描くことに変わりはなく、人間のままで、毎日を紡いでいく。何時までも鳥になりたいと願いながら、そして時として、今日の日のように強く地面を蹴り空へ向かっても、結局は、凧のように地面に繋がれたままで、太陽にじりじりと焼かれるか、トンビに身体をさらわれるかしか、選ぶ道はないのだ。

 彼女の笑った顔にペンキはベトベトと絡まりつき、額を巡る汗はぐちょぐちょと水色を溶かして、人間とも呼べず、かと言って他の何物でもない「異形」を、僕はそこに見出した。

 夕陽がそれを橙色に染めていた。君は、これから先も、そうやって、生きてくんだ。というはっきりとした諦観が、心の中で声を大にして、僕を引き裂くように叫ばれた。疑うまでもなく、精緻すぎるほどに反射されたその光景は、僕のこれからの人生をも、厳然と、現わしていたのである。

 

 日が惜しむ間もなく暮れて、辺りが、自分が誰かわからなくなるほど暗くなるまで、僕等は壁を汚した。紡ぎ、繋ぎ、作り上げていったものを壊し、そうして生まれた新たな廃墟をまた壊す、というようにして、どうしようもなく行き場のない僕らのユートピアは、諦めと共に汚れ、沈んでいった。

 

「楽しかったね」彼女は僕に、そう言って笑った。

 

(終)