フクラム国

タルイのブログです

Portal 2-6 Kite

8.

 夏は一段と高まっていき、遂に太陽が飽和状態に達したその日、イワンはありったけのペンキを購入した。人の良さそうな老人が質素に続けている画材屋で、少しだけ思案しながら、彼女の好きそうな色を2色選んで、たっぷりとバケツに入れたそれを両手に河川敷へ向かう。無論、それは彼の好きな色でもあった。

 何の気なしにリリーに話しかけたあの日の、彼女の笑った顔には、何か、酷く彼を苦しめるものがあった。敢えて言葉にするというのなら、罪悪感とでもいうべき疚しさが彼を襲った。生まれながらに持っている罪だとか罪の意識だとか、其れ等は全て生きやすくするための思考改変で、自らに罪を感じるなんて、そんな、他の何かが自分の善悪を決めているなんて感覚を、一体どうして許容できるか、と宗教を突き放していた彼は、自分のそんな一面に、控えめにも驚き、そして純粋に、彼女に恐怖の鱗片を覚えもした。

 彼を襲った恐怖は、索漠とした灰色のヴィジョンを浮かばせる。部屋から出られなくなった自分を許容する男。人生の大半を「自分と僕」という完結した空間で過ごす男。彼女の笑みには深く沈殿した苦しさがまとわりついているようで、一刻も早く、とにかく外に連れ出さなければと、かれを焦らせた。そして比較的冷静と思われる思考のある部分では、それを彼女も望んでいるだろうという考えもあった。無意識下の不躾なエゴイズムともとれるその感情を、しかし彼は抑えようとはしなかった。

 

9.

「こんにちは」

 僕は言う。できる限りの神経を使った声で話しかける。

「こんにちは」

 彼女は少し不機嫌そうにしている。俯く目元は灰色に翳っている。

「…ペンキを買ってきたよ」

 そこで彼女は振り返って、僕の両手を見ると、いくらか驚いたような素振りを見せる。

「え、これ、どうするの」

 少し口元が笑っている。なんらかの期待を僕に持ってくれたらしく、先ほどに抱いていた不機嫌はどうやらちょっとは緩和されたようで、僕はホッと胸をなでおろす。

「ほら、あそこ」

「どこ?」

「線路下。見える?」

「?何もないよ」

「強いて言えば」

 シイテイエバ、彼女は僕の口調を真似て笑った。その笑みにはやはり黒すんだものが裏に沈んでいたけれど、彼女との会話を、不可思議なほどに楽しんでいる自分がいた。

「強いて言えば、壁がある」

「うん。壁がある」

「何も書かれていない壁」

「そう、真っ白な壁だ」

「もしかして、何か描くの?」

「リリーも描くんだ」

「え、私も?」

「うん。どう?」

「…いいの?」

「…やりたい」

 彼女は初めは少し恥ずかしそうに、しかし直ぐに無邪気に笑う。

「じゃあ、行こうか」僕が言うと、彼女はゆっくりと絵の具を片付け始めた。

「そのペンキの色、私の好きな色だよ」バケツを覗き込んだ彼女に、

「だと思った」と、僕は一人ごとみたいに笑うと、彼女のそんな挙動を好い機会にして、川辺までゆっくりと降っていった。

 

(続)