Portal 2-5 Kite

6.

 背後でイワンの声が聞こえた。「やあ」相変わらずの低い声だ。誰かのために取り繕うことをやめてしまったみたいな声。イワンはずいぶん前から私の後ろにいたらしい。「ん?」と涼しげに答えてはみたけれど、心臓は聞きとれる程にバクバクしていたし、多分彼は、そんな私のことに気が付いていて、それでいて少しも気にならないという顔をしていたのだろう。

 こんなこと言ったら怒られるかもしれないけれど、というか多分変な顔をされるだろうけれど、やっぱり彼は、私の家から飛び出した少年なんだと思う。私の部屋にいた、あの沢山の兵隊さんの一人かもしれない。いつも牛乳に溺れながらほふく前進に勤しんだ彼らの訓練が、なにかしらの形になったのかも。もしくは丸鉢の中の金魚が人間になったのかな。ビー玉避けの訓練がついに身を結んだとか。いやそれはないか。あの金魚はこんなに痩せてはなかったからね。それに私の、計画性なんてかけらもない毎日の中に訓練などが成り立つわけもない。

 それにしてもなんでこう、彼は自然に空気の中に溶け込んでいるのだろう。私の絵の具と同じ色をしているのだろう。

 学校で見るよりも、河畔を歩く彼の姿ははるかに純粋な色をしている。綺麗だと思う。好きな色だと思う。ほんの少しだけ耳を傾けて、君の足音を聞くと、季節に君の音は、しっとりと溶け込んでいて、それがまた心地いい。

「こんにちは」彼が話しかけてきた。

「こんにちは。」イワンはだらしなさそうに首を下げる。私的空間に出来るだけ傷を与えずに入ろうと気を遣っているみたいだけれど、だとすると少し不器用で、滑稽だ。そんな事したってしなくたって、なにが違うというの。

「鳥」

 彼は唐突にいう。イキナリなに?という感じ。オリって言ったのかもしれない。不透明で、私は思わず聞き返す。

「鳥?」

「うん。それ、鳥でしょう?」

「この絵?」

「違う?」

そうかもしれない。

「そうかもしれない」

「或いは、自分の部屋。」

「…」

「まあ、わかるよ」

「ねえ、」

「じゃ、また」

 彼は私に話したことを少し後悔したような表情を残して、川辺へ降りて行った。徐々に遠のいていく姿は、やはりどこかで見た覚えがありそうで。

 それにしても、今のはちょっと、意地悪すぎる。

7.

 夥しい夏のさざめきは、連日、疾走感を増していった。少年たちが駆け抜け、虫たちが飛び交い、僕の歩行もまた心なしか速度を上げていたけれど、ふと、多く汗を掻くからなどという至極現実的な理由から歩を遅め、まるで自分だけが季節から隔離されているように感じたりもした。

 彼女はほぼ毎日と言っていいほどに、あの場所で筆を動かしている。流石に木陰に避難しているけれど、その白色の華奢な体貌は、未だ川辺からはっきりと確認できた。

 変わらないものはごく僅かで、電車の来ない線路と、青空への来客を拒むトンビと、彼女だけで、しかしそれらもまた、限りない反復のなかで徐々に変化を見せているらしかった。波のあまり立たない川模様はそれらを全て捉え、フィルムのように記憶しながら、僕の取り留めのない思考と忘却を黙って侮蔑しているようでもあり、変化を待望しているようでもあった。

 小さい子供が熱を持って通り過ぎていくと、彼らの引き裂いた風の荒い断面が頬を削った。それだけが強引に僕を、季節につなぎとめていて、現場からの打開策の思考は、がむしゃらな必然性を持って、僕を促していたのである。

 

(続)