フクラム国

タルイのブログです

Portal 1-5 さよならフロンティア

6.
 「運転席にヒューイがいるよ」と彼女は言った。
「ヒューイ?そう」イワンはあまりどうでもいいようだった。
 
 数瞬。
 
 「僕、行ってくるよ」と僕は、運転席に向かった。イワンにとって、リリーはなんらかの居場所であるらしい。僕にとって、それは、割と手放しで喜びたいことだった。彼はいつも居場所を探そうとしていて、その新しい場所にある、自分のまだ知らない何かを求めているようだった。思えばリリーとイワンが話しているのを見るのはこれが初めてではない。もしかしたら、好意を持っているのかもしれなかった。それはどっちがどっちに、だとか、そういうのではなく、ただ、二人でいるその空間の中に、少し頰の火照るような居心地の良さを、認め合っているのかもしれないということで。僕は友人のそんな状況に、なんらかの複雑な気持ちを持つことなく、素直に、今は離れていようと、そう思ったのだった。
 
 運転席に向かうと、「あ、ヘンリー君」と、ずり落ちた眼鏡をあげながらヒューイが言った。僕は「隣に座ってもいいかい?」と聞いた。相変わらず強い音を立てる雨は、助手席に来ると、一層確かなものとして感じられた。ここが世界の境界線なのだというように切迫した雨音は、心に落ち着きを与えるわけでは全くなかったのだけれど、ヒューイはとても落ち着いていて、まるで彼が昔からここに住んでいるんじゃないかというような気がした。
「まだ帰ってなかったんだね」僕は言葉を発しながら、
「よくここに来るんだよ」ヒューイの腰のあたりに、大きめの傘があることを認めた。
「じゃあ、雨宿りというわけではないんだ」
「うん。いつもここで、向日葵を眺めるんだ」
 少しだけうっとりとした顔を見せた彼の口元はわずかに緩んで、学校にいる彼との大きなギャップは、僕に一抹の恐怖を与えた。好奇心も、違和感も、何もかもが混合して、恐怖として一つの形を成した僕との関係を訝しげに思ったのだろうか、彼は手に持っている一冊の赤いノートを僕に示した。
「それは何?」
「あまり他の人には言わないで欲しいのだけれど…」
 ヒューイはパラパラとページをめくりながら、おもむろに、僕に一つの哲学を提示した。それは今ここに記すにはあまりに場違いのようであり、救いがたい精神世界に陥らせてしまう類のものだから、また別の機会に記すこととする。僕は車内に漂っていた心地の良い安穏をいつの間にか忘れてしまいながら、ただまくし立てるように話すヒューイの美学に、どうやって相槌を入れれば彼が喜ぶのか、それだけを考えながら、彼の展開する独特の、独特にすぎる世界観に、ああ、もしかしたら今日の日の雨は、このバスに除け者を終結させるためのものだったのかもしれないということをぼんやりと考えた。外では社会に迎合しない不幸な人間を、ここぞとばかりに罵る、或いは哀れむための祭典が行われているのかもしれない。集団に迎合することの意味もわからず、それを自由ではなく服従と考える人間たちは、幸福の概念そのものが集団から少しずれてしまっているらしい僕らは、今日雨という衣をまとって、この閉じた世界に、閉じ込められたのかもしれなかった。
 ただ、何故あの時ヒューイが、おそらく他の誰にも話したことのない哲学を、おそらく他の誰にも見せたことのないノートを開示したのか、それは雨のせいにしてしまえば楽なのだろうけれど、それにしても彼が唐突に、思考の濁流を氾濫させた本当の理由は、少なくともあの時の僕には、まだ分からなかった。
 
 「面白いね」背後からイワンの声がした。ヒューイは幾らかびっくりしたように、物凄い勢いで振り返ると、なんだかガッカリしたような顔持ちをした。
「イワン君、いつから聞いてたの」
「割と最初からだよ」イワンは意地悪そうに笑うと僕の方を見て
「フラニーが起きたよ。」と呟いた。
「そうなんだ。もうすぐ多分雨が上がるね」
「どうだろう」
「分からないけれど、それでも確実に弱まっている」
「…そうだね」
「変わるよ」僕は助手席を明け渡すと、イワンがそこに座るのを待って、座席の方へと向かった。
「それで?」イワンがヒューイに言う声が聞こえた。ヒューイは幾らか戸惑っているようだったが、それでも自分の思索を、今日ばかりは他人に見せてもいいと思っているようであり、そして何より、僕は、僕よりも遙かに、イワンにあの話をして欲しいと思っていたから、ヒューイがおもむろに口を開いた時には小さな安堵が押し寄せてきた。イワンも、そして多分ヒューイもこんな風にして始まった会話を未だ体験したことはなかったようで、幾らか戸惑いながらも、けれど興味深そうにヒューイの話を聞くイワンの横顔は、このバスの中で、急速に、今まで見たこともないような安心感と無邪気さを獲得していた。そして雨は本当に、少しずつ弱まって来ていた。
(続)