フクラム国

タルイのブログです

特別講義を聴講した

 特別講義を聴講した。見えたことがあった。もともと、近年稀にみる期待が胸にあった。何せあのベロフだ。高校生の頃聞き続けたCDの音に、現実世界でこんなにも早く出会えるなんて。しかもベロフは結果的に期待を超えてきた。音楽に携わってきて良かったと感じた。

 講義の選曲であったストラヴィンスキードビュッシーに対しての指摘の方向性が違ったので(彼は本質を作り手ごとに、もっと言えば曲ごとに据えている)、この記事ではドビュッシーについて触れる。

 最も強く感じたのは、曲へのアプローチの本質的な、根本的な(ある意味人種的な)相違だ。頭の中で考えている曲への接し方、求めているものの方向性が、僕、もっと言えば我々日本人が考えがちなものとは根本的に異なっているように感じた。この違和感を解決することになったのが、通訳者の方の、「躍らせる」という使役形の訳だ。彼は「躍らせるように」と言った。「踊るように」ではなく。ここで非常に重要な事実に片手が触れる。演奏の客観性が違うのだ。主観的な感情、動作を想像して曲の表現を豊かにするのではなく、第三者が(自分にとって)外側の世界で行動していることを表現する。いうなればそれは「主観的感情の表出」ではなく「風景の創造」なのだ。これはもしかしたら、フランス人にとっては当たり前のことかもしれないし、この記事を読んでくださっている演奏家の方々に取って承知のことかもしれないけれど、この感覚は改めて記述するに足るほど重要で、深く捉えるべき問題だと思う。

 そこで風景の創造手段を考える。その手順として、具体的に音をどうすればいいか。それが「色彩的な空気化」だ。世界に音を空気として充満させる。それは人によっては「印象」という言葉で表されるものかもしれない。その音の気体化において、注目すべき事項は二つある。

 一つ目は色彩感覚だ。風景を描く。空気を充満させる。殊にドビュッシーにおいて、その風景に具体的なイメージを持たせるために必要なのは色彩である。色を繊細に感じ取ることで、風景は彩りを増していく。

 もう一つ。それは軽さだ。音の軽さ。それが空気を生み出す直接の契機となる。響きが軽ければ、音は空気を含んで風景を形成してくれる。その軽さを出すのが天才的にベロフは上手かった。ではどうやって軽さをだすか。まず重要なのはテンポを揺らさないこと、しかしがちがちにしないことだ。テンポを自由にすることで軽さが出ると考えられがちだが、実は最も軽いテンポとはテンポを意識しないようになること、すなわちそれが当たり前の秩序として認識されることなのである。だからテンポは一定にしたほうがいい。しかし一方で、がちがちになると音は窮屈になってしまい飛翔力を失ってしまう。ドビュッシーの音楽が持っているほんの少しの揺れるための余剰を自由に使うことで音の空気への転換度が高まっていく。

 続いてフレーズ感。何処に重みがきて、何処に解決があるか。これがなぜ軽さに繋がるかといえば、ボールと同じで、地面からの反発力が飛翔につながるからだ。音楽に当てはめて言えば、ドミナントの地面に触れるか触れないかという緊張感から解決とともに一気に空へ跳躍する、という訳。この話はもちろん「拍子感」が重要であることも表している。

 また骨格(往往にして内声の半音階的進行)の意識というのがある。風景がある一定のまとまりを持つためには、そこに何かしらの具体的な支柱が必要である。そのための内声の曲全体の「魚の骨」のような部分が非常に重要になってくる。これを持たない軽さは何処かへとんでいってしまう。その音にはまとまりがなく、バラバラになってしまう。

 彼は他にも打鍵のスピードについて何回も触れていた。僕はこれに関して詳細なことは言えないが、彼の弾く音は鋭さがあって、しかし中身がぎゅっと詰まっているというのではなく、何かピンポン球のように、硬い外殻の中にそれこそ風景を生み出す「空気」が内包されているように感じた。打鍵の早さという指摘ももしかしたら、空気の内包のためのものなのかもしれない。

 

 非常に出てきた言葉をばああっとまとめてしまったのでまとまりのない文章になってしまっているだろうが、今日感じた数々のことは今後の音楽人生に深く影響を及ぼすテーゼだったように思う。こういった事柄が、思わぬところで、学習を大いに加速してくれる。僕は大学がある非常に大きな意味の一つが、この予期せぬ加速体験の出会いを多く持っているところにあると思う。