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L'après-midi d'un faune

タルイのブログです

短編『風船ガム』

 風船ガムを膨らますのが好きだ。ささいな生の実感を、手ごろに感じることができる。いつも風船の大きさが口元に収まらなくなってくると、少し恐怖感とともに、もっといけ、もっといけという体内の偽りがたい感覚が吐く息を強くする。そしていつか、決まって予測のない場所で、ぱちん、と割れる。

 陽光が消えかかっていて、もうそろそろ自然は1日の作業を終え、代わりに街が太陽の裏側で営業を始める時間帯になった。ネオンが少しずつ、この平日の、疎らな混雑を持った吉祥寺を彩っていく。絶対的な光を失ってから暗闇が覆うまでの数瞬間に、街は知らない空気を漂わせる。違う駅で降りてしまったかな、と思うくらいに、少なくともそうつぶやくことを許すくらいに、昼の終わりから夜の始まりまでの数瞬間には、捉えがたい異質なアウラがある。

 杉浦は社会的な大学生らしくバイトに勤しんでいた。大したバイトじゃない。時給も決して高くないし、第一不定期のものだ。彼の勤務先は受験期に世話になっていた進学ゼミで、今日は多大なる倦怠感を抱えながら、冬期テキストの封入作業を女性二人と淡々と行っていた。予想以上の肉体労働で、加えてなにせ女性二人しかいなかったから、必然的に杉浦の担当する仕事は運搬系の重労働ばかりとなり、(これは日頃の彼の生活を見ればわかることなのだが)彼が体に後遺症を起こすことなしに運ぶことができるのはせいぜいトウモロコシ3個分くらいのものだから、後悔と痛みが全身を這っていくのを青年はこってりと感じていた。

 段ボール箱を倉庫へとひたすら運んでいく作業の中で、筋は最大限に張りつめて、ブチブチと音を立てていた。痛い。多分相当後にまで残るだろう。黙って家に閉じこもっていればよかったのに。この身を暖かい布団の上からはじき出した訳は金欲か、それとも、社会に接続された気分を味わいたかったからか。あるいは単純な侘しさか。
 灰色の倉庫には進学ゼミらしく、おびただしいテキストの山が雑然と積み重なっている。まるでその教科ごとに色の分かれたカラフルな部品を組み合わせてでっかい戦車を作るのだと言わんばかりに。しかし年度ごと、季節ごとにテキストは更新を続けるわけだから、果たしてこの何割が意味もなく捨てられるのかと思うと、その場所の匂いがやけに薄暗くなっていき居心地の生理的な悪さが身を包んだ。杉浦は今すぐこの場所から出ようと思いながら、しかし一方で、最奥に見つけた簡素な扉に心を惹かれていった。彼は作業室に置いてある数個の段ボールのことを脇に置いて、ジャングルの不確かな足場を攻略し、扉を開けた。鍵がかかっていた。開錠音がやけに大きく響いた。残響は気持ちがよかった。

 さりげなく風が靡いている。頬に当たるひんやりとしたそれにのせて、ネオンに浮かぶ夜の萌芽と、目前を走る井の頭線の疎らな人影とPARCOの電飾を眺めながら、案外世界の終わりはこんな風なのかもしれないと、そんなことを考えていた。この僕らが住む世界にいつか来るであろう、臨界点、転換点の風景は、多少現実味を帯びていながらも、やはりこんな風に、一抹の憂鬱さを持っているはずだ。一体僕は何を待っているのだろう。世界に起こる波を、それが見えていないだけなのに、何故どこかで、自分を救うあの大波の隆起を、期待しているのだろう。
 ちょうどこんな時だ。杉浦は右ポケットから板状のチューイングガムを取り出した。甘すぎる代わりによく膨らむ。
すー、空気が入って鼻の下にピンク色の球体が見える。もっと大きくなれ。そら、もうちょい。やばいかな?いや、あとちょっとだけ

 不意にまた、ぱちん、と割れる。