興奮している

 今日見てきた「エドガーヴァレーズと室伏鴻に捧ぐ墓」は非常に重要な作品となって僕の自分史に残る必要があるかもしれない。常に、どのような勉強をしたいか、ということと並行して考えなければならない問題が、「自分がこの世界で何ができるか」ということだと感じていた。もっともそのことを考えるのはもっと自分が成熟してからのことだと思っていたし、内的に熟して来ればそういった居場所は自然と見つかるものであるとも考えていた。しかし、今回の舞台はそれを半強制的に僕に思考させてくるものだった。

 僕が(少なくともこの先数十年で)できるのは連結なのかもしれない。媒介なのかもしれない。総括なのかもしれないと痛切に感じた。

 僕の周りには優れている人がいる。たくさんいる。技術的な面を見ても、感覚的な面を見てもそうだ。彼らはその分野において、その1方向において将来一流になるような能力を持ち合わせていると思う。そんなエキスパートたちの諸分野に、「ある程度」精通していて、複数の優れた表現者たちを統合して一つの作品を作ることをする「ある程度全部できる仲介人」というのに、僕はなる必要があるのではないか。企画をやると切に感じる。誰か、誰か多岐にわたって精通していて各分野の連結を効果的に行うことのできる人が欲しい、と。決して自分を高く評価するからそういったまとめ役に自分を据えるのではなく、僕の生き方的に(僕は一つのことを切り詰めるために様々な分野から多角的にアプローチしていくことでしか学習を深みに持っていけない)そういった「つなぎ役」が合っているように(ある意味直感的に)感じたのだ。今日の舞台は素晴らしかったが、踊りと歌、照明など、数々のエキスパートがあそこまで能力を行使できる場を作りだしている芸術監督に一番感銘を受け、”憧れ”に似た何かを感じた(あのテシュネ=ローランだ)。

 だから、より知識に貪欲にならなければならない。僕が生涯で(そして多くはこの一年で)知り合った沢山の表現者達が最高に暴れられるフィールドを、至極真っ当に、論理的に構築していかなければならない。そういった使命感を、何故か強く感じたのが今日の作品だった。こんな直感は中一のヴァイオリンの音を初めて聞いた時以来かもしれない。あの時僕は将来この関連の仕事に就くだろう、と直感的に感じた結果今芸大で音楽思想の勉強をしているのだ。だから今日感じたこの直感も、多少興奮まじりに、後で見返して恥ずかしくなるような勢いのある文章で、綴ってもおおげさではないのかも、しれない。