フクラム国

タルイのブログです

短編『ルカ』4(終)

 遠くのほうで夢のまた夢みたいに高層ビルが光っている。ハスの香りが、私を必死に外界から隠し、遠ざけ、隔離せんとするかのように風に揺れて、脳裏には恐怖、安堵、そして止めどなき融解…

 徐々に水深は深まっていく。殻。私の身体は殻のようなものだ。外に見せたくない何かしら私らしき部分を覆い隠し毎日をより平凡なものへ駆り立てる、精神と一対の殻。泉がその表面の、薄い膜を溶かしていく。嫌ではない池の土の匂い。祀られた魂からぬくもりを感じる。不確かに暖かく、やもすると寒気がする。殻が溶けていく。その過程は苦痛も障害もないが、代わりに一瞬の儚さと日没を支配する憂鬱のような倦怠感がある

 「ルカ」誰かが呼んだ気がした。ビイドロかもしれないし、もしかしたら母かもしれない。「ルカ?」名前。人間である証明。どことなく制限されているみたい。名前。ここにも殻。腰のあたりまで水深が到達し、人間的な水温が身体全体に作用する。「ルカ」。私を制限するもの。私の毎日を作るもの。池にぽちゃんと水紋が広がる。存在の融解。とけていく。憂鬱だ、寂しい、苦しい、儚い、言葉は重みを急速に失っていく。私の持つ言葉も殻。それぞれが一つの殻。膜は薄く、ハスの香りに委ねればすぐ嘘になる。団地裏の公園の錆びたブランコ。お肉屋さんのコロッケの味。駅前のしょんぼりとした時計台。思い出も殻。私を世界に生かす殻。だんだんととけていっては遂に、「ここにいる」、なんて言葉が嘘になって、自意識は水の中へ。快感。殻からでろっと何かしら私の重要な部分が外界に触れたみたいだ。急速に世界がぼやけていく。さようなら、私はこの場所で人間として嘘になる。けれど星はまだ見える。オーボエだって、毎日だって、手の届く場所にあって、すぐにでも、すぐにでも、私は…

 

 じろり。「ルカ」という肉体を老人が見ている。隣にはビイドロが座る。老人は手にパン屑を持っていて、鳩がそれをつまんでいる。

ビイドロはただ彼女がハスに飲み込まれていく様を、ぼんやりと眺めている。

「僕に近づけようとすると、みんなかえって遠くへ行ってしまう。」

ビイドロはいくらか悔しそうに言った。動物実験を繰り返し失敗する研究者みたいに。

老人はそれを聞いて、朗らかに笑った。