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L'après-midi d'un faune

タルイのブログです

短編『夜の漂流にコーンスープを』

 記憶の本棚の隅っこで埃みたいに消えかかっていた断片がふと目に止まって、彼は或る歌を思い出した。昔の歌だ。理由も分からず蘇ってきたその単調な旋律から、公園で遊び疲れた夕暮れと帰り道の静けさや、隣に住んでいたタバコ好きな背の低い老人の事や、一人冒険小説を読む枕元の、あの暗闇を飛行しているような感覚がぼんやりと見え隠れする。彼は思い出の乾燥を嫌って、深まった夜の真ん中で、小さくそのメロディを口に出してみた。それだけでは消えてしまいそうで、ケースにうずくまっていたアコースティック・ギターを取り出し、簡単なコードを付けてみる。掠れた声は上手く音程を取れず、濁った音が落ちていく。もう一度繰り返してみる。少しだけよくなった。街に落ちている大きな闇が、昔は枕元の明かりを特別なものにしてくれた。それは今でも変わらない。けれどあの頃抱いていた好奇心が、今は侘しさへと移り変わっている。世界で僕だけしか生きていないみたいだ。暗闇の中の光は、冷たく孤独を照らしている。黒い海の中で漂う小さな一部屋の中で、彼は昔の歌を歌った。タバコ好きの老人に教えてもらったんだっけ。或いは父親かもしれない。どこかで耳にしただけのものかもしれない。なんであっても、歌が夜の漂流に、温かさを添えてくれる。一人冬の宵に震える彼に、ほんの少しの温もりをあたえてくれる。彼は一時、ノスタルジックな毛布にくるまり、頃合を見てまた、深い思索の漂流に出る。今日も僕一人だけ、この夜に起きているみたいだ。