フクラム国

タルイのブログです

短編『ルカ』3

 視点が僕という自意識を退けて、存在を概念的にも捨てられてしまったのちに、瑠花の眼差しへそれは向けられていく。世界はまた違った主人公を持つ。僕は既にこの世界から抜け落ちた。僕はこれ以上の関与を許されていないようだから、こうしてキーボードをただ鳴らしていく。一抹の侘しさ…

 

 「遅かったな」ハイカラと呼ばれていた男の子がこちらを向いた。「そんなでもないだろ」ビイドロ君が答える。私は、ぎこちなく微笑む。ハイカラ君は素晴らしく紳士的な微笑みを返してきて、私は自分の微笑みがこの空間に釣り合ってないみたいな感じがする。

 そう、私は3号館の屋上にいる。あの入ることが禁止されている屋上にいる。羽が生えたみたいに空を歩いた。目を閉じていたからよくわからなかったけれど、風が頬に優しく当たっていて、なんだかくすぐったくて不思議な感じだったけれど、私はここまで「歩いて」きたんだ。

 「じゃあ俺はここにいるよ」ハイカラ君が私とビイドロ君を順々に見て腰を下ろした。

「一緒に来いよ」

「いや、いい」

「なんで」

「ほら、バッハだ」私の部屋の隣で、同学年のヴァイオリンのあの人がバッハを弾き始めた。無伴奏ソナタの一番、シチリアーナだ。私と同じで、窓を開け放して弾いている。

「もう少し、聞いていくよ」ハイカラ君は気持ちよさそうに目をうっすら閉じている。聞くことに専念して、世界の様々なことを端の方に忘れているみたい。

「うん、じゃあ先に行くよ」ビイドロ君はハイカラ君の集中をできるだけ崩さないように意識して、静かに呟いた。そして私の方を向いて、さっきみたいに手を差し出してくれた。今度は目を開けていようと思う。多分いつもよりこの地域が美しく見えるはずだ。

「行こう」なんだか目の前の男の子は私よりずっと大人っぽく見えた。

「はい」背丈は幾分と小さいのに、目に映る世界は私より遥か高くにあるようだった。

 

 そんなに下を見なくても、僕と手をつないでいればまず落ちないと思うよ

 はい

 怖い?

 …少し

 あの大きな木に降りるから

 あの木?

 ううん、ほら、あそこ…

 

 「ここは動物園の中だ。」私は思わず事実を確認するために口に出してしまったようだった。直ぐに恥ずかしくなった。どうして人はこうやって、あまり望ましくないところで心の中に思っていたことを無意識に外に出してしまう傾向があるのだろう。

「うん。ここは動物園の中だ」ビイドロ君はまるで今確認が取れたみたいに言ってくれる。彼のその心遣いは私の眼に可愛らしく映る。

「はあ、緊張した」

「そんなに歩くのは難しいことじゃないだろう?」

「それはビイドロ君と手をつないでいるからでしょう?」

「そのうち一人でもできるようになるよ」彼はそう言ってくれたけれど、私にはどうもそうは思えないし、何より空を歩くことに少しの怖さを感じたりもする。

「ここはどんな動物が居る場所?」

「バク」

「バクって、あの夢を食べるっていう?」

「みんなにはそう言われているらしいけれど、ここのバクはそんな幻想的な奴じゃない。そのうち彼と話す機会がくると思う。もし君にその気があれば」

「話す?」

「うん。彼は割と流暢に日本語を話すよ。口癖は「やれやれ」だ。まるで何処かの人気作家みたいに。」

 私はなんだか怖くなった。私は知らない土地に足を踏み入れることを億劫に思う性格ではないけれど、しかし世界全体がこんな風に知らない構築体系を持っていると、根本から自分が否定されるみたいで、隣にいる男の子の手のひらにある温かみも、何処か人工的なものなんじゃないかと、或いは私の知っている「温もり」とは、次元の異なった温度なんじゃないかと思えてくる。しかしこの私の知らない世界は、どうやら毎日よりはずっと素敵な角度で回っているらしい。その証拠にほら、私は空を飛んだ。どこからみてもそれは美しい体験だった。

「ここから僕達の街を紹介してあげる」

「街?」

「うん。上野公園は僕の街だ」

 ビイドロ君はそう言ってまた私を空へ連れて行った。星はまだ遠くにあって、地上と変わることと言えば、少し風が肌寒いのと、地面がほのかな弾力を持っているくらいのもので。なんだかもっと今日が続けば良いのに。こうして未知なものへの好奇心と不安を織り交ぜた夢の中のような慌ただしさを、いつまでも感じていたいのに。

 ビイドロ君はたくさんの場所を紹介してくれた。けれどそれは今語るにはまだ早すぎる。意味を今固定することは良くない。そう著者が言っている。彼は、「思い出は語らないで胸にしまっておくものだ」なんて可愛らしいセリフを私に言わそうとしたみたいだけれど、そうはいきません。一度書き出したらその途端に、人物は貴方を離れてしまうのです。私はもう貴方のものではないから、好きにさせてね。

 ビイドロ君が紹介してくれたのは、ホームレス達の住む地下街の入り口や、美術館内までの抜け道、天体観測ステーション、石買い屋の老婆、神様とよばれる三毛猫、秘密基地のバス停、そして、満ち足りた生と不確かな死の泉……

(4に続く)