短編『ルカ』2

 木々を怯えさせるような曇天の宵に、瑠花はビイドロと出会った。それは予定されていたかのように、円滑に為された一つの物語だった。

 

 時を二日ほど前に戻そう。その過程で僕という視点は溶けていく。僕は今までのことなんか知らないふりをして、この物語において異なった立場を取る。知らない地点から、知っていることしか知らない一個人が領域を覗こうとするなんて、そんな滑稽な試みで夜を開いてみよう。

 午後九時過ぎの、ホール棟五階の片隅で、瑠花は緩やかなパッセージを練習していた。その流動的な動作から生まれる柔らかな音は、フレーズにうまく内的な繋がりを持っていて、だから音楽が既にあったものとして、自然な温かみを帯びていた。我々の意識は存在を持たない。空気中のどこかに聴覚があって、彼女のオーボエはそこから聴こえてくるはずだ。瑠花は窓を開けて練習している。音が遠くへと溶けていく。高価で上質なバターみたいに。

 

 向かい合う三号館が四階までしかないために、ホール棟五階の練習室で一人練習していると、なんだかこの大学から、この大きな土地から「外れて」いるような気がしてくる。三号館の屋上に設置された、この類の建物におよそ必要であるような物体達が空を制限していながら、やはり五階だけがこの閉鎖的な大学という空間と外の世界を、抜け道のようにして繋いでいるのだと思う。瑠花はその感覚が好きだったから練習室は極力五階を使うようにしていた。

 屋上に二つの人影があった。熱心に瑠花のオーボエを聞いているようだった。瑠花は集中すると周りで起こっていることのすべてが、あまり重要なものではないように見えてくるくせがある。例えば隣に赤くなるまで変質した目玉焼きを食パンに乗せて食べている友人がいたとしても、なんだ、そんな目玉焼きもあるんだな、というように、集中力を極端に他へ回すことができなくなってしまうのである。しかしフレーズを一つに繋げるために莫大な精神力を酷使していた彼女の中では、集める意識そのものが滅んでいて、自然とその光景が目に入ってきた。屋上に誰かいる屋上にいる誰かが私の練習を聞いている。二つの人影は明らかに意識をこちらに向けていた。瑠花は自分がそっちに気づいていると極力気づかれないように、しかし視界にどうにか二人を留めようと、なにか大切なものを落としたようなふりをして、目の前の楽譜を覗き込んだ。一つの人影が、近づいてくる。

 

 近づいてくる?

 

 瑠花は堪らずはっきりと窓の外を向いた。その影は少年だった。髪はぼさっとしていて、あまり上品な生活を送っているようには見えなかったが、その顔立ちは異質に人を魅了する何かしらの美を持っていた。彼は空中を歩くようにして、いや、確かに空中を歩いてこちらに迫ってくる。瑠花はそれが非現実的なことだと十分認識できてはいたが、しかし少年があまりにも当たり前のようにあるはずのない道を歩いているから、本心から驚く気にもなれず、こちらに降りてくるであろう少年のために窓辺に置いていたコーヒーの空き缶を隅にどけたりと、ひどく実際的な行動に移ったりしていた。

「こんばんは」窓辺にうまく腰をかけた少年は微笑んだ。

「こ、こんばんは」瑠花は多少戸惑いながら、それでもはっきりとした言葉で返した。

「僕はビイドロって言うんだ。あっちで待ってるやつはハイカラ。」ビイドロは見た目のわりに(小学校高学年といった姿形をしていた)低い声をしていた。目を閉じれば瑠花と同い年かそれ以上に聞こえるような。

ビイドロ君に、ハイカラ君」

「うん。君付けにされると、なんだかくすぐったいけれど」

「ねえ、どうやってそう、空を歩くことができるの?」

「ああ、うん。少しだけコツがいるんだ。でもそんなに難しいことじゃない」ビイドロはそう言って笑った。笑うとやはり小さな男の子に見える。

「そう、今日僕は君を誘いに来たんだ」ビイドロは低い声で言った。

「私を?」

「少し、そこら辺を散歩しないか。それともまだ練習の続きがある?」ビイドロオーボエを愛おしそうに眺めていった。

「すごくいい音だと思う」

「ありがとう。練習はもう大丈夫なんだけれど、その、なんていうか私は貴方みたいに歩くのが上手くないから…」

「それは問題ないことだ。あと、もう人間が眠くなるような時間だけれど、それは大丈夫?」

「うん、それは大丈夫。でもなんだか、貴方のいる世界の動きが私の知っている回り方じゃないみたいで、どうもついていけないと思うの」

「じゃあ少しだけ時間を置いてみよう。ゆっくりと楽器を片して、外にでる準備をするんだ。文字通り外にね。もし君にその気があるのなら、外に出て君の知らない回り方をしている世界を歩けばいい」

「うん」瑠花は戸惑いながら、しかしあまりにも違和感なく存在しているビイドロとそれによる何もないような雰囲気にまかせて、オーボエをしまい始めた。ビイドロはというと、ピアノ椅子を高く設定して、静かに曲を弾いている。聞いたこともない不思議な曲だった。決してうまいとは言えない音の響きの中に、純粋さしかだせない無邪気な音質が紛れていて、瑠花は一種のノスタルジーに体を包まれた。耳をすますと遠くの方で済んだ笛の音が聞こえる。

「ハイカラも笛を吹くんだ。いい音だろう?」そういってビイドロが瑠花の方を向いた途端に、音楽に濁りが生まれてしまって、少年は「おっと」と笑いながら鍵盤の方に向き直った。瑠花も笑った。好きな類の笑いだった。

 荷物をまとめ終えた彼女の表情をみたビイドロは満足そうに笑った。

「行こうか」少年は右手を差し出した。

「うん」瑠花が手をつないだ。冷たくて小さな手だった。

(3に続く)