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タルイのはてなブログ

タルイのブログです

短編『ルカ(仮題)』1

 午後の9時を少し過ぎたあたりのことだ。季節は秋だったと思う。或いは夏の終わり頃だったかもしれない。肌を撫でる風に少しの涼しさが付加された頃だった気もするし、かといって上野公園全体に漂うあの銀杏の匂いはまだ姿を隠していたようにも思う。ただとにもかくにもそれは夏の終わりから秋にかけて、その段階的なグラデーションの一場面のことだ。

 

 練習室の灯りが消えていた。もう家に帰ったらしい。僕は慣れない練習からくる出口のない倦怠感に頭を痛めながら彼女のいない練習室をぼんやりと認めた。他の部屋からは未だ明晰な光が溢れ、部屋の前を通っていけばそれぞれの音が防音扉を通って聞こえてきた。しかしその中に彼女の音は聞こえない。平生なら彼女はまだここで人間的な温かみを持ったオーボエを吹いているはずであった。僕は彼女と喋ったこともなければ、多分彼女の方は僕のことを知りもしないと思う。それでも僕の方は彼女が「ルカ」と呼ばれていることを知っているし、彼女と僕が同い年なことも知っている。「ルカ」。それは彼女の本名かもしれないし、その一部分かもしれない。或いはなんらかにまつわるあだ名かもしれないけれど、彼女は「ルカ」として、僕の世界に姿を見せている。こんなことを書くと僕は彼女に気を取られて毎日を過ごしているみたいだけれど、事実はむしろ逆方向のベクトルを持っていて、僕の彼女への興味はごく微量なものだった。表面的なものだったと言ってもいい。元来人の名前や、特に誕生日なんかを覚えることは非常に不得意だったし、それをさして重大な欠陥だとも思っていないのだけれど、彼女は端的に言って好感の持てる整った顔立ちをしていたし、なにせ彼女のオーボエは人間的な温かみを持っていたから、僕の記憶の本棚にかろうじて存在を残し続けていたのだ。しかしながら彼女の存在はやはり刹那的にしか僕の世界に影を落とさず、彼女への関心はまるで枕元の夢みたいにさらわれてしまって、僕はピアノの蓋を閉めながらぼんやりと、今日は秋葉原まで歩いて帰ろうかしら、なんてことを考えていた。

 

 上野公園は夜を纏うと、孤島のように隔離され、世界から切り取られていく。ここはそんな場所だ。

 陽の落ちた町では、太陽の代わりに人間の目が社会という秩序体系を守るために、この惑星を監視する。僕らはそれに無意識化で守られながら、無意識化で規制されながら、夜の中を漂う。この東京という一つの都市において、僕らは基本的にそんな風にして毎日をやり過ごしている。ただ秩序は人間の肌に完全に馴染むことはない。真面目さが必ずしも良いことではないように、人間は善いことだけでは人生を見繕えないからだ。だからこそ僕らは太陽に監視されない夜、人間の監視からも逃れるために人気のない道を突如歩きたくなったりする。「コンビニに行く」だとか、適当な理由をこじつける裏側には、なんとかして監視の目がない町を歩きたいのだという本能的欲求が働いている。しかし簡単に成し遂げられるものではない。たいていの場合は社会を意識するようなコミュニケーションを必要とするし、監視の目はあなたを捉えている。ただ我々は、そんな監視から逃れたひと時、何にも縛られない人間としての「躍動」を感じる。

 この公園は、そんな圧倒的監視社会からの隠れ家としての可能性を提示し続けている。こうもりが飛びかって黄昏ているふりをする男女を追い払っている。鈍感な彼らを噴水が嘲笑っている。乗る人のいない子供遊園地の「機関車トーマス」が、顔だけを悪魔みたいに覗かせて、表情のないパンダと闇に佇んでいる。僕はこの公園のそんなところが好きだ。社会に深く連結している美術館はその動きを止めている。制服姿の少年少女はもういない。太陽はもう出ていないし、代わりに細くなった月は監視の目を閉ざしている。多分そこに生き疲れたピエロが座っていたところで、僕は何も驚かないだろう。彼が悲しみにくれたダンスを踊っていたら、僕はそれを当たり前のようにして、その切ない舞に鼻歌をかぶせたりするのだろう。
 秋葉原に抜けるためには、不忍池の脇を通る必要がある。不忍池。あの巨大な進入不可エリアこそが、上野公園の闇の真髄であろう。監視の目から逃れてきた深い闇の累積場のように、そこには一面の蓮がびっしりと水を隠し、視界を隠し、おそらく人が見てはいけない「何か」をも隠している。圧倒的な面積を埋め尽くすそれが内部に隠している「何か」。それはもしかしたら化け物の類かもしれないし、あるいは世界にとって重要な「石」のような力の核かもしれないし、もしかしたら一つの「村」が形成されているかもしれない。そんな想像が許されるくらいに、不忍池は圧倒的に人間の目を遠ざけている。高層マンションやラブホテルのネオンが背景画と化し、あたかもこの世界だけが本物のような気がしてくる。根源的な恐怖を覚える僕の足取りを、ホームレスの老人の虚ろな目は追いかけている。遠くのベンチから、至極静かに僕を見る。彼らは何もせずに、ただそこにある現象のようで、やもすると嘘のように思えてくる。

 

 蓮の葉が揺れるたびに透明な香りが首筋を抜けた。灰色の水滴がまとわりついてきているみたいに、頬には不可思議な非現実感が宿る。心には余裕がなくなってきた。早いうちにここを出なければならない。ラブホテルの下品な発光が、凄く暖かいものに覚えてくる。一面の蓮の隙間から、ルカの顔が見えた気がした。それは白く発光していて、彼岸の生命体のように思えた。案の定それはルカだった。蓮畑のなかに食いこんでいる橋の中で、彼女は一人佇み、なにかしら僕には見えない感情を愛でているようだった。僕はその姿が至極自然な気がした。まるで少女がぬいぐるみに話しかけているみたいに、当然のこととして受け取った。それほどまでに彼女は美しく降臨していたのだ。僕は駅へ急いだ。ルカの様相は生よりも死に近く、善よりも悪に近いように思え、僕は単純に、その美を恐れた。

 高尾行きの快速電車に揺られながら、小さい頃によく見た、崖から興味本意で飛び降りる夢を見た。夢の終わりには決まって、太陽が見えた。
(2につづく)