フクラム国

タルイのブログです

彼女もいないのに恋の話をする

 いつだったか、サン=テグジュペリの『夜間飛行』を読んだ。記録によると11月2日のことらしい。僕の記憶の中でも、おおまかなところはそのあたりだ。何故か、いつだったか、なんて大層な言葉を使えるほど、それは遠くのことだった感覚がある。

 その素晴らしい中編小説の中に、こんな一節があった。僕は総武線のゆっくりとした揺れの中、夢とレールの上をうとうとと行き交う中でその一節を目に止めると、なんだかあの、作品鑑賞でごくたまに訪れる、「遂に出会えた」「ぴったりとはまった」という感覚を覚えて、筋肉の継ぎ目がソワソワとした。その小説の中には、こんな一節があった。

「ある音楽の一節が彼の唇にのぼった。それは、彼が友人といっしょに聞いたあるソナタの一節だった。友人たちには音楽の意味がわからなかったので、「この芸術は、君にも僕にもただ退屈なのだが、ただ君はそれを白状しないだけなんだ」と言った。

「そうかもしれない……」と彼が答えた。

 今夜と同じように、そのときも彼は自分を孤独に感じたが、すぐにまた、このような孤独が持つ美しさを思い知った。あの音楽の伝言は、凡人たちのあいだにあって、秘密のような美しさを持って、彼に、彼にだけ理解されたものだ。あの星の信号もまさにそれだ。それは、多くの方を乗越えて、彼にだけわかる言語でものを語っていた」(『夜間飛行』新潮文庫、50頁)

 ここまで美しく、「秘密のような美しさ」という音楽の機能を記した一節に学生の内に出会うことができたのは、幸運というほかない。思うに人を高ぶらせるものの大きな一つに、こういった「美しい過去の産物」との出会いがある。だからこそ僕らは過去の音楽を聴き、本を読むのだと思う。

 音楽の良し悪しを決める視座は、酷く個人的に形成されるものだ。特に演奏者の好き嫌いは人によって大きく分かれるところだと思う。しかし、僕らは音楽を研究していく過程の中で、音楽的な毎日をやりすごしていく中で、ある「音楽の聴き方」を、その指針を確立していく。あるいは「演奏の仕方」を。その指針を確立させるのも、個人だ。人からいくら指図されようと、指針を我が物にするためには「自分なりに」指針の核の部分を構成する必要がある。

 そうしてできた(少し誇張していうが)「世界中で僕だけの視座」が、ある音楽、演奏と深い部分で繋がる時、音楽は「秘密のような美しさ」を持つだろう。それは恋の約束事を考えればわかりやすい。「あなたとわたし」だけが共有している「秘密」には特有の愛おしさがある。それに似た感覚を、僕らは音楽に覚えることがある。だから音楽に恋をするなんて困ったくらい匂いがきついセリフにも、ある意味の妥当性があると思う。

 音楽の研究をすればするほど「ヒ・ミ・ツ♡」と出会いにキュンキュンする僕の多分恋心にそう遠くはない部分。何故純粋な恋心は乾いているのか。本気で悩むにはまだ早すぎる問題だ。それほどまでに僕は音楽にやられている。女性とはなんぞや。