フクラム国

タルイのブログです

ネーム

最近知った話だが、自分の名前を忘れる奴が案外いるらしい。「僕の名前って、なんだっけ」なんて、物語中盤で大きな事件の後記憶喪失した主人公だけが言えるフレーズなのかと思っていたけれど、どうやらそんなことでもないようで、例えば隣のクラスの杉本なんかは当たり前のように自分の名前を一瞬思い出せなくなるらしい。

もっとも、杉本というやつはパーカーのフードが気に入らないと言って工作用のハサミで切るような奴なのでなんともまともだとは言えないけれど、それでも自分の名を忘れるなんて、中々いかしているとも思うのだ。

名は体を表すなんて言うけども、なんて残酷なことわざなんだと悲しくなるばかりである。自由に生きろと言っているのに、名は体を表すなんて、そんな、生まれた時から何になるか決まっているみたいに、そんな残酷なことってないよ。

でも杉本は違うんだろうな。きっとかれの「真司」って名前は全く彼の器にしっくりきてないんだろうと思う。自分に名前が釣り合っていなさすぎるから、多分、忘れてしまうのだ。彼はずっとそれでいいと思うし、なんならどこか南の方の国で「ンジャマハラ・ド・ゴマジ」みたいな、その土地ならではの名を授かってこの国に悠然と帰ってきてほしいと思う。

 

杉本のことが僕は好きだ。なりたくはないけれど羨ましくもある。自分の名前、僕は一生忘れられそうにないから。

コウモリかモグラ

 朝になると危ないから外に出ないほうがいい、とパパは言った。

 子供ながらに他の誰かと遊べないことを変に思ったけれど、とても逆らう気なんて起こらなかった。

 言ってしまえばどんなこともどうでいいように思えたし、よくよく考えれば、友達に価値があるとも思えなかった。僕らは終生共感することなどなくて、手を取り合うこともできずに、きっと、何も変えられずに死んでいくのだから。

 

 まぶたの重さに耐えれるほど物心のついた頃、涙を流していたはずの映画も退屈なものに成り変わってしまって、ついに朝の街へ出た。自分の身は自分で守れると思ったし、パパはついこの間土に還ったから、特に気にすることもなかった。

 驚いたことに外はやけに騒がしくて、好きだった公園に逃げるように駆け込む。其処では親たちが幸福を持ち寄り、まるで罪人をみるような目つきで僕を襲った。黄色いイチョウが隙間なく地面を埋めていて、今更のように季節が秋になったことを知る。

 

 太陽という惑星が生きるための希望を押し付けているように思えた。100均で盗んだサングラスをかけると、全てが夜になって意味を失う。幸福は多数決で決められた宗教みたいで、夜よりもずっと、居心地が悪い。

 

 

 

本の話1

 昨年取っていた講義の先生が、集英社文庫から『ポケットマスターピース』というシリーズが出たと知らせてくれた。トルストイルイス・キャロルカフカディケンズなど古典的な小説家たちの名作が文庫で読める、とのことで、先生も少し関わったという。

 大学の図書館に入れておいたとおっしゃていたので早速借りに行った。先生がヴィクトリア朝の専門だったことは知っていたから第12巻『ブロンテ姉妹』を借りたところ、なんと少し関わったなんてとんでもなく、本文のほとんどが先生の翻訳であった。

 

 ブロンテ姉妹はヴィクトリア朝を代表する三姉妹で、それぞれが名作を書き残している。長女シャーロットの『ジェイン・エア』、次女エミリーの『嵐が丘』、三女アンの『アグネス・グレイ』などがそれである。

 本書にはエミリーの美しい詩の訳がまずあり、続いて『ジェイン・エア』の抜粋、そして『アグネス・グレイ』が先生の翻訳で書かれていた。そこにはヴィクトリア朝の女の子が持っていたある種の「閉塞感」と、想像力豊かな恋の有り様が美しい形で記されていた。

 彼女たちが味わった時代の束縛感を僕は直接的に感じることができないけれど、それでもいつも感じている「ここではないどこかへ」という心の飢えを、遠い時代の遠い英国の女性が強く願っている姿は魅力的だった。家から出て家庭教師になりたいと願う、単調な日常から脱したいと常に願っている、その純粋な欲望には共鳴するものがある。

 加えて恋の想像力である。僕たち人間は限られた時に、限られた姿を見ることしかできないと、その限られた部分から、ひとりの人物のいわゆる性格などを「想像力」で作り上げていくことになる。だから出会わない間にも恋というものは理不尽に膨らんでいく。姉妹たちが持つその想像力の大胆さ、繊細さは、異性として甚だ興味深く、強く惹きこまれた。

 

 いくら有名な「ブロンテ姉妹」と言っても、僕は先生の講義を取らなければ、きっと、読むのがもっと後になっていたことだろうと思う。少なくとも、この本をこのタイミングで読むことはなかったのだ。

 読んだ本をこういう場所に書くというのは、そういう面でやっぱり意味があると思う。読書習慣のある人にとって、あるいは少しでも読書に興味のある人にとって、「何の本を読むか」ということは大事なことだ。好きな作家の本だとか、好きな作家が影響を受けた本だとか、そういったものに際限なくのめりこめればいいけれど、僕はやっぱり、それだけだと飽きてしまう。自分の好きな作家の他の本を読むのと同じくらい、あるいはそれ以上に、現実に知り合った誰かが勧めてくれた本を読むのが好きだ。自分だけの本棚が、ひたすらに自分の好みで埋め尽くされるのではなく、誰かから勧められてなんとなく「出会ってしまった」本で溢れるようになってほしいと願う。

 人との出会いが大事、なんて言葉はあまりにもありふれているし、そのことが何よりも大切だ、と言い切れるくらいにはわかったつもりになっているけれど、でもやはり何度でも確認するべきことがあって、それは、人との出会いなしに、僕たちはどうやってこの自由意志などまるでないような人生を楽しむことができるだろう、ということだ。誰かのせいで、こんなになってしまった。誰かのおかげで、こんなになった。そういった「外部からのノイズ」なしに、僕たちの人生は、どのようにして個人的で彩りのある、ささやかだけれど価値のあるものになっていくことができるというのだろう。

 

 だから君が読んで面白かった本があったら、僕に教えてほしいと思う。そしてその本に出会った時に、想像力の中にいる君のことを思い出す。本当はそれだけできっと、大変な価値があるはずだ。

露草

 透明な風の通った場所が柔らかな風景を残しているように、僕らの歩いてきた道にもきっと、穏やかで特別な感慨が柔らかく残っていて、それを手放したくないからずっと、「散歩をしよう」と、誰かをどこか海辺の街へと誘っている。

 少しずつ移り変わっていく景色の中で忘れられていく様々なものを、最も繊細な部分の感覚だけがかすかに認めていて、それだけが僕を、今日も、この場所に引き止めているように思う。

 それは僕だけの秘密で、だからこそ多分、宇宙が持っている秘密そのものでもあって。

 全ての手段をつかって届こうと願うその場所にそのまま届けてくれそうなのは音楽だけで、僕は結局その世界に片足を踏み入れながらも文章を書き、言葉にした分だけ遠のいていくその場所に、狡猾に、裏道から近づこうとする。曖昧なメタファーを探していく。

 音の響きの帯にある透明感と柔らかさが紡ぐあの場所を、きっと今日も探している。近づいていると思った分だけ、遠ざかっていくばかりだ。それは幼いころ作った泥だんごの隠し場所みたいに誰もが当たり前のように覚えていたはずなのに、気付いたら感情の渦の中に埋もれてしまっている。どうにか救い出そう、掘り当てよう、と意識的になればなるほど、静かに遠のいていく。

 音の帯は世界を包んでいる。そこには確かにあの日感じた透明感があって、微かにどこかへ向かいたがっている。次の音が出る。音と音のつながりを指先でわずかに滲ませる。水中?深海か、いつの間にか流動の中にいる。無意識の中で潤いは全身を柔らかく包んでいく。音楽は、秘密への直行便だ。

 

 ゆっくりと変わっていく。雲がいつのまにか進んでいたように、冬がやがて春になるように、僕もやがて大人になって、単純なことを今よりもっと忘れてしまうのだろうか。

 僕はピアノを練習します。それが終わったら、一緒に、どこか散歩に行きませんか。

荒北君1

荒北君は基本的に、クラスの人たちのことが全く好きではありませんでした。

特に嫌いなのが、集団でつるんでいる男子と声の高い女子でした。つるんでいる男子は、荒北君には、誰も彼も1人の人間であることを放棄しているように見えるのです。

お前ら、元気そうに騒いでいるけれど、正直、死んでますから。人間やめてますから。

荒北君は彼らに「地獄、地獄、地獄」と全力の怨念を込めて唱えます。しかし彼らは日に日に勢力を増して、まるで太陽のように教室内で輝きを増していくのです。まったくもう、ほんともう、地獄、地獄、地獄。

それを助長するうるさい女子のうるさいこと。彼女らはイケメンと悪口しか興味がないのでしょう。荒北君は彼女らにもまた「地獄、地獄、地獄」と全力の怨念を込めて唱えます。ただし、顔がとびきりタイプな女の子とたまに話しかけてくれる優しい生徒会長に対してだけは「うーーん、控えめな地獄♡」と優しくとなえます。

 

いつまで僕はこんな場所でサルと一緒にいなければならないのだろう。

荒北君は退屈そうに欠伸をしながら、何の気なしに「エロ画像 巨乳 眼鏡」と検索し、教室でエロ画像という最高にスリリングな状況においてもまったく勃起しないような不屈の精神力を得ようとしました。

「君は世界一タフな15歳になるんだ」もう1人の自分の声が聞こえます。

荒北君はぼうっと流動性に満ちた豊満ボディの裸体を眺めながら、早くもう一歩先へ、と、そればかりを考えます。すると何か世界的な争いに屈したように股間は僅かに反応し

「君はまだ未熟だね」ともう1人の自分の声が。

 

荒北君が深くため息をつくと、生徒会長が心配そうにこちらを見ています。

「そかそか、ふーーむぅ、やはり、芸術のための芸術が独り歩きしているな…!」

前髪を弄りながら荒北君が「いいこえ」でそう呟くと、生徒会長は呆れたような笑い顔を見せるのでした。

 

つづく

 

憂鬱とおしゃべり2

 ブランコが程よく揺れて景色が宙に浮くと、知っている街の景色の中に一瞬間、記憶の中にあった特別大切な感慨が現れる。

 それはどこかに通じている気がするし、そのどこかへ行きたいと常に思う。

 

 学校が今日から始まるとか思っていて、それは確かに一般論としてはそうだったのだけれど、休講とかが中途半端にあったりしてもう何もかもどうでもよくなってしまい海まで行くと言う友人についていった。そしていろんなことを考えた。考え途中のことを話しても考え途中として聞いてくれる友人がいて良かったと思う。

 書いていることや言っていることとが自分の行動に繋がるまでにタイムラグがあるのはどうしてだろう。思っていてもできないことが多すぎるのはなぜだろう。頭ではわかっているのに体が動かない瞬間の萎えはなんなのだろう。

 あと、自分の問題だけでもそうなのに、そこに他人が絡んできて、本当に「いくら自分が行動を起こしても意味がない」という気持ちになってしまうとき、あの感慨は本当になんだ。撲滅したい。ああなると他人のことが嫌になってそうなった自分が嫌になって世界自体がどんよりとする。撲滅したい。

 いっそもう全部投げ出してどこか遠いところへ。そう思う時はどうしたらいいのだろう。ブランコに揺られながら考える。いまの僕はただ逃げているし、やってくるものとは結局は向き合うのだけれども。

 携帯が震える。すぐに海まで逃げるような僕にさえ、また一つ通知が溜まっていく。今日であった、逃げずに戦っている人々のことをおもう。身勝手ながら身を案じていると、またブランコがほどよく揺れる。

憂鬱とおしゃべり 1

自然と人工の二項対立は作りやすいけれど、例えば自然が持っている「世界の秘密」みたいなものがあるとして、それが全ての事柄を然るべきかたちで動かしているとしたら、人工的に作られたものも全て「世界の秘密」による然るべき理であるわけだから、「人間が勝手に自然を壊してはいけない」という意見は本当に正しいと思う一方で、そうした考え方自体は「人間が自然の理から外れた超越的動物である」という人間を特異的なものとして認識していて非自然的である。

 

こんな話はよくある気がする。逆説的、という言葉で世間では片付けられるけれど、やっぱり高校生が連発する「逆に」には一定以上の真実さがあるように思う。考えると僕たち人間にできることと言ったら何かを変えれるとかそんな大層なことではなくて、いくらか自らの役割に自覚的になること、くらいだという気がしてくる。

 

でも逆に、人工と自然の対立などないのなら何処にだって「世界の秘密」はあって、ファンタジーは潜んでいて、僕のこのどうしようもなく億劫な気持ちの中にも、騒がしい花見客の中にも世界の秘密に迫るような何かがあって、表現をする側の人間というのは好奇心の赴くままにそれを物語として形作ることを自分の今世における役割とするわけけれど、結局のところ、自分の好奇心が向く先は決まっているから、今この死ぬほどつまらない現状は、世界の秘密があるかないか、とか、物語になるかどうか、とはまた別次元の問題で、只々、死ぬほど億劫でつまらないというだけなのだ。

明日から学校が始まるらしい。だから今日は中途半端な気持ちの中で浮いているのかもしれない。また日常が生まれる。その中で忙しなく動きながら目の前の一歩だけを信じる、的なめちゃくちゃサクセスなストーリーを歩む気持ちになりながら自己啓発本みたいな毎日を過ごして行くのかと思う。

何処かに行きたいけれど何処かわからないし、家を出ても家に帰りたいと思うだけ。精力的になっていた自分のことも思い出すけれど今はただ眠くなるまでを待つばかりで早く明日が訪れないか、明日がそして早く過ぎないかとそればかりを思う。

全ての気持ちが文字になって落ち着く。だからまだニキビが治らないのだと思う。まだそんなような時期なのだろう。