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できるだけ真っ直ぐなうそ

タルイのブログです

Here Comes The Sun and I Say 2

 第2章 深浦:「自分にはヴァイオリンしかない」とまでいうつもりはないけれど

 

 昨晩の出来事が未だじめじめと全身を侵食し続けていて、練習には全くと言っていいほど身が入らなかった。何をどうしようと、何を弾こうと、その先には本当に何もないんじゃないかと、幾ら上達したところで意味などないのではないかと、深浦は虚しさをただぼんやりと感じた。昨年のインフルエンザを除き全く休んだことのなかった学校を休み、ただ何もしないのも癪だからとヴァイオリンを取り出してみたけれど、意識は意地悪なくらい弾くことを面白く思わないようで、部屋の中に充満する悪い色の空気に感情が染められていくのを抗えずにいた。

 深浦は小さな頃からヴァイオリンを習っていた。小学校低学年の頃は習いごとの一つといった感じで、大して興味を持っていなかったのだが、小学校高学年になると途端にその楽器の上達に没頭するようになった。きっかけとして過去の一点を挙げることは出来ず、ただ成長の一時期に訪れる特有の、言いようのない情動にその楽器が共鳴したのである。その頃はただ自分が自分の実力よりも少し上にあるような曲に挑むことが心底楽しかったし、そんな自分のことが嫌いではなかった。背伸びした分だけ得られるものは大きく、毎日を慌ただしく過ごしながら、自らの腕が上がっていくのを快く思っていた。

 周囲からは当たり前のように一線を引かれた。勉強も決して苦手ではなかったし、それなりの勉強を然るべき順序で行えばそれなりの点数を取れたから(深浦にはむしろ然るべき順序を踏まずに表面的に知識をなぞるだけで結局低い点数を取る同級生のことが本当にうまく理解できなかった)、「真面目」「お嬢様」というレッテルを全身に貼られた。それはある種の猛烈な違和感を彼女にもたらしたけれど、その距離感ゆえに人間関係のいざこざや何かしらのイベントに深く関わらず、またある時は知らずにいれた、という事実を踏まえると、総合的な利害関係を考慮した上で、彼女はそのレッテルを受け入れることにしていた。

 高校二年生になってから、ヴァイオリンを弾くことに人生の多くの部分を費やしてきた彼女は、今更音楽以外の何を専門にしたところで、という気持ちもあって上野の芸術大学を受験しようと考えた。ついていた先生も当然の成り行きとでもいうかのように深浦の芸大受験を後押ししたし、彼女の両親も否定することなく、こちらもまたそうなると思っていたというように娘の意思を受け入れた。彼女も大人たちの反応は大方予想出来ていたし、ある種然るべき成り行きとして、彼女の進路は至って自然に決まっていたように思えた。

 ただ漠然と不安を感じていたことも確かである。いうまでもなく、将来の不安である。大学は四年間もあるのだし、そこでまたじっくりと考えればいいのだからと、さして迫った問題ではないように思っていたけれど、芸術表現というものがどれだけ社会に正当な評価(そんなものがあればだが)を受けないものか、それがいかに生活に結びつかないかということは、朧げにわかっていた。しかし、かといって、今までの人生で毎日何時間も費やして取り組んでいる何かがあるとするなら、いったい大学でそれ以外の何を学ぶというのだろう。「自分にはヴァイオリンしかない」とまでいうつもりはないけれど、音楽で大学に行く以外の選択肢が、深浦には面白いくらい見えてこなかった。

 さして喉が渇いている訳でもないけれど、そこに理由を押しつけるようにして、台所にお茶を飲みに行く。頭の中には悪い空気の濁流がとめどなく流れていて、一時も自分を落ち着かせてはくれなかった。「やんなっちゃうね」彼女はひとりごちた。何か大切なものが抜け落ちているような自らの声に少なからず動揺する。「やんなっちゃうね」と今度は心の中で呟いてみた。先ほどと同じ声色が響いて、あれ、私ってどんな声してたっけ、と、そんなことを思う。

Here Comes The Sun and I Say 1

 第1章 京谷:家に帰るにはいつも橋を渡る必要があった

 

 …どこへでもいけるような気がしていた。知らない名前の駅を降りて、見たこともない街まで。ずっとぼんやりと描いていた自由が其処にはあって、様々な秩序を超えたその場所で、自由気ままに歩く。そんな日がいつか来るのだろうと、ずっとそう、思っていた。

 

 今日もまたマンネリ化したホーム・ルームが終わると、四散する男女に混じって、すり抜けるように教室を出る。教室に残るのは、面倒だと主張したくてたまらないような素振りをする掃除当番の人たちで、彼らはいかにも不服そうに役割分担をジャンケンで決めながら、それでもいくらか楽しそうに当番をこなしているように見えた。彼らは終わりの見えてきた高校生活を、表面上は気怠そうにしながら、けれど皆同じように、惜しんでいた。黒板の、卒業まであと「 」日と書かれた場所がまた一つ数を幼くする。徐々にその数字には使われる色が多くなり、ありったけのチョークの色で豪華に飾られていくのだろう。

 学校にはそれなりの人数がいるはずで、彼らは各々部活動に向かったり、図書館へ勉強しに行ったり、或いは自分と同じように、ぼんやりとただ、家路に向かったりするのだろう。僕はその中の一人でしかなくて、空を飛ぶ鳥からすれば、僕とその他の区別なんて、毛ほどもありはしない。ただ、面白いくらいにそんな風に客観的に自分を認識することができずに、今日もひどく主観的に帰り道を歩いた。イヤホンにはドビュッシーの《牧神の午後への前奏曲》を流す。はっきりとした形象を持たずに揺蕩う透明な音の群から、すべての現実的秩序が緩んだ空間に訪れる素敵としか形容できない何かを、僕は微かに、しかし確かに感じることができた。

 

 学校は嫌いではなかった。寧ろ好きと言っていいと思う。授業は決してつまらなくないし、僕はそれなりの友人関係を築き、そのうちの一人か二人に関しては、人生で出会えてよかったと言えそうなくらいの間柄になった。それは素直に幸運なことだったと思う。

 しかし何かしらの違和感がどうしても離れなかった。「自分の居場所はここではない」という違和感。はっきりと、どこの国に行きたいだとか、どんな時代にタイムスリップしたいとは言えないけれど、それでも「ここではないな」という違和感は、どれだけ遠ざけても、ぬぐいきれないものだった。

 気づけば、はっきりとした違和感の解決法を見つけられないまま高等学校に所属して二年半が経っている。義務教育ではないとわかっていても、名付け難い強制力にやられて、今日もまた、学校へ通う。「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問を受けてたじろいでしまう大人と同じように、「なぜ高校に行っているのか」という問いに対して、僕は答えられるのだろうか。

 

 電車を待つまばらな人影の向こうに、落ちかかった太陽が今日最後の輝きをみせている。水のように透明な空に、薄い橙色がゆっくりと染み込んでいく。ホームからは開放的な臨海公園が見え、犬を散歩させる年老いた夫婦がのんびりと平日の夕方を過ごしている。潮風が微かに運ぶ海の匂い。同時に、イヤホンから流れる夢想的な音楽が名づけがたい何かの枠組みを超えたような展開を見せ、五感の全てが透明に彩られたような、変なメランコリーが襲ってくる。今反対側のホームで電車を待てば、或いは、知らない街へ、いつも夢見ている美しい世界に行けるもかもしれないと、そんなことを思う。しかしいつだって、そんな勇気はないのだ。いつだって、思うだけだった。時刻表に合わせて僕の街へ向かう電車は停まり、ドアは自動的に開かれ、吸い込まれるように3号車に乗り込む。できるだけ端に近い席に腰を下ろして文庫本を開く。それだけだ。

 

 家に帰るにはいつも橋を渡る必要があった。海を目前に控えた隅田川に堂々とかかるその大きな橋には、大型車の無遠慮に地面を高速ですり減らすような摩擦音がいつだって騒がしく響いている。潮風はそれに煽られて爆速で吹き去っていき、僕は毎日のように、置いて行かれるような気持ちになる。

 日没までにはまだ少し時間があった。中の島公園へ向かう。中の島公園はその名の通り橋の真ん中あたりにひょっこりと位置する小さな公園で、目立った遊具もなく、子供達の騒ぎ声もなく、ただ静かに運河にその身を横たえていた。潮の満ち引きによって様々な場所が浸水してしまうこの公園は、四方を海に囲まれていて心地がいい。僕は特に用事の無い限り、その公園で日が暮れるまで本を読んだ。ドビュッシーの流れるイヤホンを外し、穏やかかつ野生的な潮騒の中で異国の本を読む。ここではないどこかで、自分にどこか似ている人物が事件に巻き込まれ、それなりに苦しみ、そしてなんらかの解決をみて、生きて行く。死んでしまうときもある。ただそれがどんな結末を迎えようとも(多くの小説にとって結末は案外些細なものだ)どれほど自分の住む世界と遠ざかったフィクションの中の出来事だとしても、自らの構成要素のうち一つでも物語の中に通ずるものを見つけることができれば、文字で綴られた物語世界にのめりこむことができた。自分に関係のある物語として、主観的にページをめくることができた。

 その日は珍しく先客がいた。いつも座るベンチにひとりの女の子がだらりと腰をおろして、さして興味もなさそうに足をぶらぶらとさせ、その振幅運動を見つめていた。小学6年生か、中学1年生といったところだろう。彼女の顔には何か引っかかるものがあった。街中で見かけたのか、或いはよく知っている誰かと似ているのか。しかし記憶を巡れば巡るほど、なんだかそれは只の気のせいのように思えて、彼女のメランコリーを邪魔しないように遠く離れたベンチに座る。少女は灰色のワンピースに身を包み、心なしか元気のなさそうに、のんびりと揺れ動く自らの足をいつまでも眺めている。

 僕は大人しく読書を始めた。日没までにはまだ時間があった。

そういえばちょうど満月

 行動と思索の全てが欲望と名付けられてしまう日が怖い。

 特定の誰かに好きという感情を向けることも、何かの役に立とうと思うことも、人を信じることも、ただの欲望になってしまって、誰かに疎まれるのが怖い。誰かに一線を引かれるのが怖いし、誰かの邪魔をしている自分が情けないし、誰かを傷つけた自分を嫌になる。

 女の人の体に訪れるという毎月の決まりごとは現象として現れ出るものだけれど、より内的な形で、全ての人になんらかの月ごとの周期が備わっているのではないか。どんなに人と話して優しさを手に入れても、どんなに思いやりを手に入れても、全てを壊してしまいたいという乱雑な欲望とでもいうべき「影」が訪れる日が必ずやってくる。よくできた児童文学みたいに内なる影と剣を持って戦えたらいいのだけれど、相手の姿はそう捉えられずに、気づけばいつも誰かを傷つけている。美辞麗句で飾れない、単純な野性的欲望が怖い。

 

 結局セックスだ、死だって、そんな風に全ての答えを知っているかのような知識人たちに、「あえてバカになって嘘を信じようよ」といい続けたいのに、他ならぬ自分が見せる飾れない汚さが月に一度くらいでやってくるような気がする。こんな日があってもいいだろうけれど、こんな日も文章を書いている。少し、疲れる。

さんがつのじゅうににち

 誰も彼もがどうでも良くなった途端に頑張る理由を失う。自分を守るための「頑張る」を、いつからかどこかに捨てている。

 ぬくもりに近い何かが遠ざける世界中の「あなた」との距離は、やもすると届かなくなりそうで

 履きなれたスニーカーでぼんやりと歩く

 雲がゆったりと遠ざかっていくのを眺めながら

 季節にあわせて感情がすり替わっていくのを感じながら

 明日になったらきっと、大丈夫だろうと思いながら

その先の角を曲がって

 さち子は毎日改札口隣の鳥居をくぐる。なんでも神様が祀られているらしい。さち子はぼうっとその場に立ちすくむと目を閉じて大きく息をする。僕はそれを外から見ることもなくみている。まるでこの駅は面白いものばかりでとても君には構っていられないよとでも言うかのように、遠くの方に意識をさらわれているようにして、彼女の動きに関心があることを悟られないようにしながら。
 さち子は息を吸って神様の気配を感じとっているように見える。それはまるで、周囲の建物に圧迫されて居場所をなくした神様と地球最後の約束を交わしているみたいだ。
「いこ」さち子は気付いた頃に鳥居の向こうから帰ってくる。「うん」僕の声は誰と話している時よりも静かで、忙しない時計の流れは何処かへ消えてしまっている。しかしそれはどことなく心地良い。

 公園の横をゆっくりと歩いていると、前方に高いビルが立ち現れる。ビルの前で二手に別れる道筋は、右に行くと学校につき、左へ行くと、当たり前のように学校から遠ざかる。別れ道にはそれが当然であるかのようにミニストップが構えている。
「ビルが倒れてきたらどうしよう」さち子が呟くので
「ベランダの窪みになんとか隠れるしかないかもしれない」とどうでもいいような答えを返す。
「ほら、あの7階の2つ目のベランダとか、あそこらへんに、どうにかして」彼女はぼうっとビルを眺めている。僕もぼうっとビルを眺める。今にも倒れてきそうなそのビルは、背後に透明な青空を従えて、いつもより随分と色付いて見える。
 さち子はビルを見ながら覚束ない足元で、上下左右に少しずつ動く。どうやら窪みにはまる場所を探しているらしい。
 僕は笑う。「遅刻してしまうよ」と言う。
「そうね」そう言うと突然と大きめのステップで勢いよく駆け出す彼女の後ろに置いてかれないようについていく。随分と世界が色付いて見える。世界は白と黒の間にある僕の知らなかった色をまとっている。さち子がみている世界が僕の少しばかり単調な世界に透明な色彩を載せていき、みたこともない色が世界を二段階不安定にさせる。
 ミニストップの前で少しばかり立ち止まって、学校とは反対側へ向かう道筋を見遣る。世界がカラフルで、不安定で、可能性に満ちている。もしかしたらその先の角を曲がってみれば、知らない場所へ続いているのかもしれない。僕はさち子と一緒なら、何処へだって行けるかもしれない。

 けれど、気づくとさち子は学校へ向かう道に進んでいる。慌ててはぐれないようについていく。僕らは今日もそんな風にして、日常が怠惰に構える学校へと向かう。

村上春樹とクラシック音楽

 村上春樹の小説には必ずと言っていいほどクラシック音楽が登場する。そして多くの人は少なからずそこで流れる音楽に興味を持つ。『1Q84』を読んでヤナーチェクの「シンフォニエッタ」をyoutubeで検索する人もいれば、『騎士団長殺し』を読んでリヒャルトのオペラ「バラの騎士」を観ようとし1幕の途中で諦める人もいるだろうし(律儀に全幕見た人もいるかもしれない)、『海辺のカフカ』を読んでベートーヴェンの「大公トリオ」が一体どんな曲なのだろうと思いをはせる人もいただろう。

 村上春樹が音楽を小説の中に登場させるのは、作品と根底の方で深い繋がりを持っていて、その曲が作品の謎を解くカギになっているからだ、と考えられがちだけれど、それに関しては、全くそうではない。(『多崎つくる』におけるリストの「巡礼の年」や先の「大公トリオ」など、少しそんな風に使っている作品もあるにはあるが)。彼はミステリー作家ではないし、プロットを綿密に組み立てて書き始めるタイプの作家では全くない。

 村上春樹作品における音楽は、寧ろ、ある意味で「読者サービス」とも言えるし、「ファッション」とも言えるし、「自由意志とは別文脈の必然性に対しての信仰」とも言える。それは批評する側の自由である。しかし、春樹自身は音楽をどのように認識しているのだろうか。

 村上春樹クラシック音楽に抱く思いは、割とはっきりとしている。『海辺のカフカ』から一節を引いてみよう。物語後半、星野青年がナカノさんを連れて図書館に出向き、大島さんに話しかけるシーンである。

 

「じゃあひとつ訊きたいんだけどさ、音楽には人を変えてしまう力ってのがあると思う?つまり、あるときにある音楽を聴いて、おかげで自分の中にある何かが、がらっと大きく変わってしまう、みたいな」

 大島さんはうなずいた。「もちろん」と彼は言った。「そういうことはあります。何かを経験し、それによって僕らの中で何かが起こります。化学反応のようなものですね。そしてそのあと僕らは自分自身を点検し、そこにあるすべての目盛りが一段階上にあがっていることを知ります。自分の世界がひとまわり広がっていることに。僕にもそういう経験はあります。たまにしかありませんが、たまにあります。恋と同じです」

 星野さんはそんな大がかりな恋をした経験はなかったが、とりあえずうなずいた。

「そういうのはきっと大事なことなんだろうね?」と彼は言った。「つまりこの俺たちの人生において」

「はい。僕はそう考えています」大島さんはそう答えた。

(『海辺のカフカ(下)』新潮文庫、330頁)

 

 この音楽に対する大島さんの意見は、『意味がなければスイングはない』という音楽にまつわるエッセイ集で、全く同じような形で現れる。村上春樹クラシック音楽への想いはここにあるのだと、僕らはここではっきりと認識できる。また長い引用になるが、前出の引用と比べながら読んでいただけたらと思う。

 

「思うのだけれど、クラシック音楽を聴く喜びのひとつは、自分なりのいくつかの名曲を持ち、自分なりの何人かの名演奏家を持つことにあるのではないだろうか。それは場合によっては、世間の評価とは一致しないかもしれない。でもそのような「自分だけの引き出し」を持つことによって、その人の音楽世界は独自の広がりをもち、深みを持つようになっていくはずだ。

(中略)

 そしてそのような個人的体験は、それなりに貴重な温かい記憶となって、僕の心の中に残っている。あなたの心の中にも、それに類したものは少なからずあるはずだ。僕らは結局のところ、血肉ある個人的記憶を燃料として、世界を生きている。もし記憶のぬくもりというものがなかったとしたら、太陽系第三惑星上における我々の人生はおそらく、耐え難いまでに寒々しいものになっているはずだ。だからこそおそらく僕らは恋をするのだし、ときとして、まるで恋をするように音楽を聴くのだ。」(『意味がなければスイングはない』文系春秋、76頁〜)

 

 村上春樹クラシック音楽の「個人的体験」が「自分の世界を一目盛り豊かにする」と言い、そこにある「記憶のぬくもり」は、「まるで恋のようだ」と言う。レコードが世の中に流通し、音楽を自宅で聴けるようになり、お気に入りのレコードをすり減るまで聴いたのであろう彼が考え出した、彼の時代の「音楽の聴き方」がそこにはある。彼の作品に出てくるクラシック音楽は、(全部ではないが)決してメジャーではない作品や演奏家であることが多い。それらの演奏は村上春樹自身が、「個人的体験」として音楽を聴いてきて見つけ出した、「自分だけのぬくもり」を持っている音楽なのだと思う。内的世界を外的世界と同一化させ相互的なアプローチを持って物語を進行させる村上春樹にとって、そうした音楽の個別性はうまく働く一つのツールだった、という見方もできるだろう。

 さて、youtubeをもち、apple musicを持った21世紀に生きる僕らは、果たして「恋をするように」音楽を聴けるのだろうか。もうレコードの時代は終わったのだ。僕らはどのようにしてクラシック音楽を聴き、どのような関係を築いていけば良いのだろうか。

 僕らには音楽の聴き方の自由がある。そして、聴こうと思えば名演奏もマイナーな演奏もほぼ全て聴ける。家から一歩も出ることなくスマートフォンからそれは流れる。もし外に出るとなれば、僕らはイヤホンでそれを聴く。レコードを買うことも出来るし、演奏会に行くことも出来る。音楽の聴き方は無限の選択肢に溢れている。そしてだからこそ、クラシック音楽は聴かれなくなっていくのではないか。

 僕らはクラシック音楽をどう聴くべきなのだろう。どう聴かせるべきなのだろう。「べき」なんて言葉を使うべきではないとしても、聴く態度の自由さが、クラシック音楽に「退屈」というレッテルを貼り付け縁遠いものにしていることは確かだ。だからある程度の「聴く型」を、示す必要がある。

 世間の人がクラシック音楽をたくさん聴くならまだしも、控えめに見て、西洋音楽は余りにも世間から遠のいている。それはクラシック音楽界で生きる全ての人にとっていいことではないはずだ。だから村上春樹のような、人の心を打つような、美しく感動的な音楽の在り方を、データ・ダウンロードに溢れたこの世界で模索する必要がある。それはクラシック音楽を学ぶ一人の人間としての絶対的な使命ではないだろうかと、こればかりは強く、毎日のように感じるのである。

古本屋

 古本屋で抱えきれないほどの本を買ったので懲りもせず未読本が増えた。もう未読本が既読本より遥かに多くなって久しい。人は笑う。僕も笑う。けれどこう、うまく言えないけれど、循環する欲望に瞬時に応えられるような本棚を、できる限り、用意しておきたい。

「オレは本が好きだ」と雄叫びを上げながら(しかしながら脳内で)重すぎるリュックサックをおろし一冊一冊ニタニタしながら本棚に納めていた時、作家の高橋源一郎さんが「自分ほど小説が好きな人はいないだろう」とどこかに書いていたことを思い出した。なんと言うかそれはおぞましいことであると感じる。日本文芸界の第一線にいながら、それでもまるでそれだけが自分の唯一の美点とでも言うかのように、「これだけははっきりと言える」というような感じで、自分ほど小説が好きな人はいないだろう、と主張できる。果たしてどれ位の既読本があってそんな風に言えるのだろう。どれ位の未読本を買い込んだのだろう。

 

 高橋源一郎さんは吉本ばななさんのことを、太宰治のマネを遺伝子レヴェルで成功した人、と言っていて、いずれはそんな風に観れるようになるのか、小説を、と喜びとともに驚いた。

 これは音楽に対してでもそうで、(作曲をしている方に多いだろうか)一つの視座として、この作家(作曲家)は誰々の手法の影響を受けている、だとか、そういった事を指摘できる人がいる。プロフェッショナルなら当たり前なのかもしれない。僕の周りにも当たり前のようにそんな視座を持って作品を受容する人は沢山いるのかもしれない。

 作品を嗜む万人に必然な視座では勿論ないのだろうけれど、何かを作る側の人間として、表現する側の人間として、ゆっくりと養っていかなければならない視座だと感じる。今の僕は小説を読んでも、ほとんどわからない。そもそも、作者が真似しているその誰かの本を読んだ事ない場合が多いのだろう。

 ふと思い当たって僕が書いてきた恥ずかしい諸々を引っ張り出してみると、面白いもので、真似できてるとは到底言えないまでも、明らかに影響を受けている文体が見受けられる。読んできた本が露骨に見て取れる。脳内警察が稚拙すぎるパクリだとサイレンをあげている。僕も逮捕されて然るべきだと思う。堀辰雄村上春樹が染み込んでいる文章ばかりだ。三島由紀夫を随分と読み込んでいた時期のは全くその美しさを真似できず不恰好過ぎる書き物して残っていたし、高校時代に駆け抜けた西尾維新の影響が比較的最近のでも残っている。最近では川上弘美の文体を真似しようとしたりしているみたいだ。

 文体は内的な部分とつながりを持ってはいるだろうが、少なくとも現れとしては外的なものだ。思考している言語と作品として外側に放たれる言語は間接的な繋がりを持つだけで、遠い次元のずれのようなもので隔たりを持っている。頭の中に流れるイメージと楽器の出す音が直接には結びつかないように。だからかなりの程度養えるものなはずだ。技術的なものとして、ありていに言えば、自分の努力次第で、才能如何の問題とはまた別に。

 僕はこれからどんな人物のどんな文体に出会えるのだろう。どんな風に変わっていけるのだろう。読んでいない読みたい本だらけの本棚に、どれだけの未読本が納まるのだろう。

 勇気を出してゴメンと財布に謝りながら買ってしまった未読本の数だけ、そんな伸び代が見えるような気がして、懲りもせずまた古本屋に出掛ける。