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L'après-midi d'un faune

タルイのブログです

又吉直樹『劇場』

 自明のことかもしれないが、又吉直樹は物語作家ではない。何故なら思考言語と小説言語の「次元のずれ」が余りにもないからだ。

 又吉さんといえば何と言っても『火花』だ。『火花』は主人公が師匠と呼べる先輩芸人と出会い、彼の「伝記」を書きながら触発され、芸人の道を進んでいく、というプロットがあり、一つの物語として読むことができるが、少し穿った見方をすると、「エッセイの寄せ集め」だとも言える。

 『火花』が出る前に刊行された『第2図書係補佐』や『東京百景』などを読むと、『火花』に出てくる色んなエピソードがそのまま彼の過去体験であったことが分かる。物語中盤にあるベージュのコーデュロイパンツをダサいって先輩の前で言いまくったら先輩の家で買ってあるベージュのコーデュロイパンツを見つけた話など、すべてそのまんま自分の過去の体験なのだ。

 (穿った見方はもう少し続く)又吉さんは、言うなれば、自身の人生で出会った「すべらない話」を物語の流れに乗るような形で編集し、『火花』という作品にしたと言える。其処には又吉さんがいて、他の誰でもない。その有り様はひどく直接的だ。

 頭の中で考えている時の思考言語は、理性的であろうとすればするほど回りくどく文字数の多い面倒臭いものになる。物語作家、という職業は、音楽でいう「音」、画家でいう「絵の具」のような感覚で「文字」を扱うべきだと思う。一つの現実世界と対応する「表現」と小説がなる為にそれは必然的なことだ。

 しかし人々は考え事を言葉で行うから、その頭の中の言葉と物語に使われる「文字」が混同しがちだ。職人的な物語作家にはそういうジレンマとの闘いが常にある。例えば現代の日本物語作家の代表格である村上春樹は、その混同を起こさないように、超感覚的なメタファーや、特徴的な語り口調を用いて、両者の「次元のずれ」をはっきりと(かなり極端なほど)認識させる。

 対して又吉さんはその混同をやめない。おそらく意識的に、意図的に思考言語をそのまま小説に持ち込んでいる。

 先日の2017年4月号の新潮で掲載された新作『劇場』は、そんな又吉さんの思考言語の直接攻撃がうんざりするほど長く、体に刺さってきて痛いわ、という印象を持った。劇の脚本家を志す主人公と道端で出会った女性との恋愛小説、という一つのプロットを持ってはいるが、その女性のことも『東京百景』にすでにエッセイとして書かれている。冒頭から兎に角長く小難しく同じようなことを回りくどく考え続ける主人公。中盤のメールのシーンなどは読んでいてこちらが恥ずかしくムカついてくる。頭の中で言葉がぐるぐると回っていてどれを取り出していいかわからない時に、そんな自分が嫌でノーフィルターで全ての言葉をばら撒くと、すぐに死ぬほど恥ずかしくなる。そんな経験を主人公は何度も繰り返す。

 『劇場』の思考言語の直接攻撃は有り体に言って読み手をうんざりとさせる。同時に何かを裸にされる気がして、世の中が嫌いになっていく。人によってはそういう自分から目を遠ざけて鼻で笑い、軽蔑するだろう。或いは自嘲的になるかもしれない。

 

 又吉さんは、『夜を乗り越える』という新書で太宰治の自殺について、「たまたまその日の夜を乗り越えられなかっただけだ」というようなことを述べていた。そして自分は文学に「今日を生き延びる力」を貰っている、と。彼の根幹はここにあるように思う。「死にたくなるような夜が来た時に、どうしようもない孤独が体を包んだ時に、「とりあえず、今日くらいは生きておこうか」と思えるもの」これが恐らく、又吉さんにおける「文学」の定義なのだ。だからこそ、テレビで引っ張りだこの「ピース又吉」もこんなんなんすよ、と、思考言語をあえて裸に出しているのではないだろうか。

 又吉直樹を通して、僕らは、テレビの前にいる人間が、舞台に立つ人間が、ただの自分と同じしょうもない奴だということを思い知る。ネットの書き込みに傷つき、しょうもない間違えをし、本当に面白いと思っていることが評価されない毎日が続くのはテレビの前の人間も変わらないのだと。「ピース又吉」の思考言語がそのままに放り出された場所で、共感とともに、テレビの中の又吉直樹が僕らの前に裸で降りてくる。あるいは、又吉直樹が僕らを裸にして舞台裏に連れていく。

 そんな風にして綴られる小説の中で、彼は急遽ニヤッと笑って(或いは無表情のままで)、スッと、感情を届ける一流の芸人に成りかわる。取り繕ったような物語の筋だとしても、自分のエッセイ風にまとめあげた体験をそのまんま紡いでいるとしても、又吉さんは、一人の芸人として、人間として、その「スッ」という瞬間を届けたかったのだと思う。『花火』の「スッ」が行われた終わり方について、作家の西加奈子さんは「私は、昨今の文学界で一番美しいラストシーンやったと思います」と述べていた。『劇場』の最後の数ページでも『火花』と同じような「ラストシーン」が行われる。思考言語にうんざりした分だけ、自分にうんざりした分だけそこにスッと現れる「劇場」は尊いものになり、裸になった僕らに、笑いと、ありったけの人間的な優しさを与える。

 そして、昨今の文学界で一番美しい終わりをみた僕らは、とりあえず、今日ばかりは、生きてみようかと思える。

 自明のことかもしれないが、又吉直樹は物語作家ではない。彼は紛れもなく、一流の芸人である。

九井諒子『竜の学校は山の上』

 九井諒子という漫画家がいる。彼女の漫画には大きな特徴がある。どの作品も「ファンタジーの新たな視座を模索する」というコンセプトを持っているのだ。羽が生えた天使が学校に通って進路に悩んだり(東京は電線が多くて飛びにくいので留学を考える)、人魚の出る街に住む青年が「人魚の人権問題」について悩んだり(人魚の売春問題や人魚を殺したら殺人罪になるのか、など)、勇者が魔王を倒したその後酒に溺れていったり(魔王がいなくなると今度は人間たちが争うようになり、勇者は自分と仲間の死の価値がわからなくなる)。彼女は(主に)RPGゲームが生み出したある種の「決まり事」を共有している読者に対して、その暗黙の了解から展開されるユニークな視座を模索する。現在連載中の『ダンジョン飯』も、RPGゲームの中にある魔物達が住む「ダンジョン」の中で魔物達を材料に料理を作って生活する、という独特の視座がコンセプトになっている。

 彼女が2011年に出版した「竜の学校は山の上」という作品集の中に入っている、表題作『竜の学校は山の上』もまた、「ファンタジーの視座の模索」として見ることができる。今の日本に竜が生きていたらという設定で描かれたその作品の中で、主人公は「竜学部」に入るために田舎の山の上の学校に進学し、そこで「竜研究会」というサークルに入り、竜の活用法について部長や部員たちとともに模索していく。ある時は竜の卵を目玉焼きにしてみたり、身体中の部位を使って鍋を作ってみたり、愛玩動物としての可能性を考えてみたり。そんな毎日の中で、部長が口にする「利用価値」や「インパクト」という言葉に、主人公は段々と違和感を覚える。「利用」や「インパクト」という実利的なものでしか竜の魅力を表せないのか、と。

 同時に主人公は、世間の人にどれだけ竜が必要とされていないかを思い知る。RPGの世界では活躍できるのに、自分はこんなにも好きなのに、世間は竜を役に立たないものと思っている。大学で学んでいる専門的なものに、世間の人がどれだけ興味がなく、また、今の社会で必要とされていないのかを思い知る。でも、そういう世間に対して、反論することの出来る具体的な言葉が思いつかない自分に、嫌気がさす。少し、分かるような話だ。

 物語の終盤、主人公は部長に悩みを打ち明ける。

「竜なんか役に立たないから大切にする意味はないって言われても反論できない気がして…香野橋部長はどうですか/そう言われたらどう返しますか」

 すると部長はこう答えるのだ。

「世の中にはな_ふたつのものしかないっ」

「役に立つものと/これから役に立つかもしれないもの/だっ」

「なくしてしまったものを/あれは役に立たなかったってことは言えるけどそれは所詮狐の葡萄/だから簡単に捨てちゃいけないんだ」

「でも役に立たないと諦めたら/それでは捨ててしまうのと何も変わらないだろ」

「私は自分のやることに自信を持ってるつもりだよ」

 世の中には役に立つものと、これから役に立つかもしれないものしかない。竜は現在こそ利用価値がないかもしれないけれど、だからといって、可能性を探すのを諦める、ということにはならない。部長は力強い言葉でそう彼に告げるのだ。

 

 部屋の中にあるガラクタを整理することは重要である。歴史の重要な流れを覚えることは重要である。人生には限りがあるのだから、「今役立つこと」を選抜して「今は役に立たないこと」を生活から、覚えるべき歴史の事項から切り捨てることは絶対に必要だ。

 でも、じゃあ「今は役に立たないこと」は全て要らないのか。幾ら要らないと言い切ろうとしても、部屋の奥にしまってあった幼い頃遊んだおもちゃだとか、歴史の中でもみ消されてしまった無名の音楽に心を揺さぶられることが誰にだってあるはずだ。

 「もしかしたら役に立つかもしれない」という感情は、「今役に立たないから」という真っ当な理由で押しつぶされがちだけれど、主人公が空を飛ぶ竜のことを美しいと思うように、自分にとって「役に立つかもしれない」と思えるものがあるなら、それを美しいと思うなら、自信を持ってそれを信じていいのかもしれない。

 今は何にもならなくても、世間の役に立たなくとも、探し続けていれば、いつかは何か誰かの役に立つ。そんな奇跡を願い、信じろと、部長は言っている気がする。

 そして部長の美しく爽やかな顔を見ると、そんな「いつかは役に立つかもしれない」を信じることこそが、毎日を幸福に生きる糧になるのだと、九井諒子が言っているように思えるのである。

向こう側の街

 この街に移り住んで半年が経った。

 生活には少しずつだけれど慣れてきている。時計塔のことも、魔法の唐揚げが揚がる時間帯のことも、学校のことも、少しずつだけれど、分かってきた。

 今日最初の伸びをして、布団からゆっくりと足を下ろし洗面台へ向かう。狭めの洗面台で夜を落とすために顔を洗い、歯磨きの音でいびきを忘れる。体が今日に馴染むまでのしかるべき工程を、僕はゆっくりと、しかし着々と整えていく。今日も比べる対象が思いつかないほど清純な朝で、カーテンは「こんな風になりたかった」と夢見心地で揺られていて、それらの夢を壊さないようにベランダへすりぬけると、電信柱に寄りかかるさち子が見えた。さち子はくるくると先の丸まった髪に人差し指を絡ませている。あくびをしたそうなとろんとした目で、彼女はどんな味の退屈を食べているのだろう。

 僕は今日最後の伸びをしてしっかりと制服に身を包む。少しだけ急ぎ目で外に出ると、僕とさち子の間には突然の風が吹き、Aのコードで夏の匂いが過ぎ去った。

 

 電車はすいすいと海面を行く。僕らは窓の外を何の気なしに見遣る。飛び込みの練習をしているペンギンと指導教官のユリカモメと、キラキラとはしゃぐフラミンゴ達が海の光の粒の中で輝いて見える。

「数学の教科書、忘れてきちゃった」

「それなら貸してあげる」

「でも、わからなくなっちゃうでしょう」

「前の学校でやったんだ」

「そう」

 つり革が揺れるたびに、僕らも同じように揺れる。至る所に貼られた広告は今日も感動と啓蒙を安く売っている。ぎいこ…ぎいこ…。お兄さんが手に持っているブリキのヒーローの後ろに付いたネジを巻いていた。

「何をしているのですか」僕はお兄さんに聞いた。

「生活のネジをまいているのだよ」お兄さんは思ったより力強い声で答えた。僕にはなんだか彼が無理をしているような気がした。

 

 アナウンスが電車の到着を告げる。僕らは反対側のドアの前で降りる準備をする。さち子は足元に気をつけて電車から降りる。学校へと続く改札口の前方で、二人の少年がホーム端から釣り糸を垂らしている。

「よく水色のイワシが釣れるのよ」さち子は彼らを見て呟いた。

アパート

 感情が心から生まれるとしたら、心は一つのアパートみたいなものだと思う。こうなりたいという願いや、どうしても堪えられない欲望や、悪癖など、それらは心の中でアパートの住人となって、各々の部屋で過ごしているのだ。この感情は301号室、この感情は203号室、とか、そんな具合に。この感情の髪型はどんなだろう、とか、この感情は、化粧品にお金かけてるだろうな、とか、そんなことを考えると、何だかちょっとおかしい。問題児もいるだろう。家賃を延滞する奴もいるだろうし、出て行く奴も、入ってくる奴もいるだろう。

 感情を自分のアパートにきちんと住まわせておくには、それらを言い当ててくれる「表現」が必要になると思う。言葉でも、音楽でも、絵画でも、行動でも、何かしらが働きかけてくれないと、僕らは感情を忘れてしまう。忘れられた感情はアパートに住んでいながら、引きこもりになってしまったり、謎の死を遂げてしまったり、暴れまわって壁に穴を開けてしまったりする。

 

 子供っぽさから卒業しようとした時期がある。ぼうっとここではないどこかのことを思ってはしゃぎたくなるほど楽しい気持ちになったり、どうしようもない孤独を感じたり、卑猥な気持ちになったり、あるいは、死ぬことが怖くなったり。そんなことに時間を費やすのを、もうやめようと思った。もう大人になるのだから、と。そんな時間は無駄であると執拗に言い立てる世間の流れみたいなものが確かにあって、そんなの只の中学生特有の病だよ、結局承認欲求だ、性欲だ、若さだ、死への希求だ、と切り捨てる言葉があって、それを賢いとする流れがあって、そこに乗るためにはこの感情にはアパートから出て行ってもらわなければ、とそんなことを思った。けれどなんだか名残惜しくて、何か大切なものがあるような気がして忘れきれずに悶々とする。

 そんな毎日の中で、或る日学校帰りに立ち寄った古本屋の店頭に、一冊の詩集を見つけた。10歳年上の女性の、綺麗な黄色の詩集だった。

 

私達のこのセンチメンタルな痛みが、疼きが、

どうかただの性欲だなんて呼ばれませんように。

昔、本で読んだ憂鬱という文字で、かたどられますように。

夜のように私達の心は暗く深く、才能豊かであるように。

くずのようだと友を見ています。

軽蔑こそが、私達の栄養。

 

最果タヒ:文庫の詩(『死んでしまう系のぼくらに』より)

 

 彼女がふらっと心のアパートに立ち寄って、「憂鬱」が引きこもっている部屋の鍵を渡してくれた気がした。彼女のアパートの憂鬱と、ぼくの部屋にいる憂鬱は少し種類が違うだろう。それでも確かに、誰かの個人的な言葉が、もう一人の個人的な感情に、届く瞬間はあるのだ。

 あった、あったぞ、と走りながら階段を上って部屋の鍵を開けに行くと、今にも消えそうなほどやせ細った感情が、「遅いよ」と力なく笑った気がした。

 今の自分はその感情と、多分一番仲がいい。

ゆっくりとおやすみをとなえる

 僕の世界で見ている「赤」と、他の誰かが見ている「赤」が違う色かもしれない。子供の頃に、そう考えたことがあった。

 でもすぐに気がついた。それを証明する手段などないのだ。例えば僕にとっての「赤」が誰かの目には「青」に見えているとして、その違いを僕らは多分、眼球を取り替える以外に、生涯わかりあうことができない。「赤」はあったかい色で、トマトの色です。とその誰か(多崎君とする)に伝えたとして、多崎君にとっては、僕が見ている青色こそがあったかい色でトマトの色なのだ。少し、ややこしいけれど、眼球を取り替えてみれば、今まで赤いと思っていた窓の外の夕焼けは多崎君にとっての青色で、この木の机は黄ばんだ白色で、そして透明な窓ガラスは薄い桃色をしているのかもしれない。

 

 大学に入ってからずっと、自分の強みというものを探し続けていた。何かを得意にならなければならないと、ずっと思っていた。どんな性格でもいいから、「僕はこんな風な人間なんだ」と言い切れるようなものを身に纏わなければ個性のない人間になってしまうと、取り柄のない人間になってしまうと、そう思っていた。

 けれど、恐らく、頑張ることなんて、ないのだ。自分には何にもないと、自分が透明であることを許してもいいのだ。何故なら、僕の世界にとっての「透明」が、他の誰かにとっての「透明」だとは、限らないのだから。もしかしたら、案外綺麗な桃色をしているのかもしれないのだから。

 

 何かを得意になろうとしても、得意になろうと頑張った分だけわからなくなっていく。でもそんな惨めな姿も自分で、頑張って無理をしている不器用なところも自分で。

 全ての過去の僕が僕で、そして今の僕も僕ならば、果たして明日の僕は、どんな僕なのだろう。

 

 不確かで、不安で、それでも、少しだけ楽しみな明日に向けて、ゆっくりとおやすみをとなえる。

「君の名は」について

 チャゲ&アスカで言うところのアスカの方が再逮捕されかけた話をアスカさんが釈放されてから知った世間離れした僕でも「君の名は」はみた。一度とならず二度見た。新海誠さんのことが前々から好きだった。100円で買った漫画版「ほしのこえ」を皮切りに、「秒速5センチメートル」だとか、「星を追う子ども」だとか、「彼女と彼女の猫」だとか、そしてなにより「言の葉の庭」だとか、特に「言の葉の庭」はかけがえのないほどに、好きだった。

 新海誠さんとは将来お話できたらいいな、と、漠然とおこがましいことを思う。身勝手なそういう思いを色んな人に抱いて生きてきた。椎名林檎にも、松本大洋にも、村上春樹にも。誰しもがそうなのかもしれないけれど、少なくとも自分にとって、いずれはそういう人たちと出会える存在になりたいというのが、ささやかな、けれども非常に力強い、毎日を生きる糧になっていたりする。新海誠村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に影響を受けたと述べている。村上春樹のことはいつかきちんと自分の中で整理したいと思うけれど、今までの人生の中で最も影響を受けた人は、と聞かれたら間違いなく村上春樹と答える。そして春樹の諸作品の中でも、最も多面的に影響を受けた本が、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』なことは間違いない(好きすぎて英語版とドイツ語版とフランス語版を持っている)。つい先日進路相談に母校へ行った際、現代文の先生が新海誠のことを「ポスト・村上春樹」と繰り返しおっしゃっていて、もし何かを書くのなら、自分がどういう時代に生きているかということを意識しろ、ということを強く仰ってくれた。「ポスト・村上春樹」の僕らが何かしらの世界を思い描く時、やはりその構図には前提として春樹的な世界の混じり合いとすり替えがある。ポスト・ワーグナーの芸術家たちがどうしてもワーグナーの影響を少なからず受けたように。多分僕だけじゃなかったのだろうけれど、新海さんの「物語」を組み立てる方法には、言語化できないある種の「同質さ」を深く感じた。「君の名は」は、そうだよな。そういうロジックだよな。という同感で溢れていた。世界をすり替えるとして、そうしたことを論理の外で(フィクションとして)行おうとする場合、もう僕たちは村上春樹的なロジックを意識せざるを得ないのだろう。

 あと一つ、新海誠さんについて思うのは、音楽を情景的に聴いてきた人なんだろうな、ということだ。自分にとって何か特別な感情を揺さぶるような音楽に出会うと、それは多分新海さんの中で、一定のノスタルジーを伴いながら、自分の中の妄想として、一つの世界観を作り上げる。音楽という時間芸術が、一つの個人的な空間を、内包することになる。そんな感覚があるからこそ、音楽と場面が重層的に展開する世界を描いているのだと思う。少し、わかる。

 自分が何かしらを思い描く時、その発火剤には大抵音楽があった。ポップスでも、クラシックでも、思い返してみれば、常にテーマとなる音楽が自分の創作的文章にはあった。音楽は僕にとって、一つの世界観を持った宝箱のような一面がある。今はそんな風な受け取り方以外にも少しはできるようになったけれど、人生で最初に好きになったクラシックの作曲家がドビュッシーだったように、作品が描く情景というもの、その世界観の中に浸り、「ここではないどこか」へ思いをはせることは、今も音楽体験の一番の源となっている。

 

 「君の名は」をみた友人が、「音楽がイマイチなあ」と言っていて、その感想に、ある面でとても共感した。「君の名は」の中には複数の挿入歌があって、それらは全てRADWINPSさんが担当しているのだが、その音楽が悪かった、という話ではなくむしろその真逆で、RADWINPSの音楽は明らかに、歌詞を強く持ちすぎていた。そればっかりは、批判でもなくただの感想として、きちんと思い返したい。音楽と世界観の関係という面から、少し考えてみたい。

 物語の要所要所で流れるRADWINPSの音楽は、美しく世界を彩っているように思える。けれどそんな彩りとなるには、あまりに考えられた歌詞すぎた。例えば「まどろみの中で 生温いコーラに ここでないどこかを 夢見たよ 教室の窓の外に 電車に揺られ 運ばれる朝に」という歌詞があって、とても格好の良い歌詞だと思うけれど、いくらか丁寧に紡ぎすぎて、映画の美しい世界と並行して受容するには、文法的にも取りにくい。そんな箇所ばかりで、きちんと音楽だけを聴きたいとなんども感じた。音楽それ自体が、言葉遊びや詩的な並び替えをたくさん行っていて、十全に「君の名は」という物語を伝える媒体となって(しまって)いる。

 今回は新海さんとRADWINPSが綿密なやり取りをして音楽を作ったと聞いた。今までは既存の曲に一方的に持った個人的な世界観を新海さんが描いていた。だから劇中でアニメーションと合わせても混ざり合うことはなかった。あくまでアニメーションとは違う何かを思い作られた誰かの音楽と、新海さんの個人的な世界観が重層関係になっただけだから。しかし今回は寄り添いあいすぎて、お互いがお互いのことをよく知りすぎて、補完どころか相殺してしまっていた。結果的に観客の大半は情報過多に陥り、RADWINPSの美しい歌詞を、情報として捨てざるを得なかった。言い方は悪いけれど、それらは部分的に、雰囲気作りのBGMに成り下がっていたとまで思う。

 けれどどうなのだろう。RADWINPSの劇中歌を聴けば、今も映画の世界観そのものを思い出し、浸ることができる。楽曲だけになると、綿密に考え込まれた歌詞が、物語世界を、ある意味、映画で見ていたよりもずっと、個人的な感情を付与して、思い起こさせる。だからそれでいいのかもしれない。映画は素晴らしかったし曲自体も素晴らしい。だから相殺していいのかもしれない。わからない。

 

 少なくとも言えることは、音楽に個人的な世界観を持ち、それを作品にすることをここまで率直に行っている人がいることが、自分の音楽体験の仕方に一つの「確かさ」を感じさせてくれていることや、例え縁結びの効用があるとされていた「君の名は」を見た次の日にマイ・ガールフレンドとお別れしてしまったとしても、僕の「君の名は」が好きな気持ちは揺るがないということだ。

 「君の名は」には賛否両論ある。否の矛先は主に終わり方に向けられる。「いや、平和的すぎるだろ。」そんな風に思うことはできる。「え、なんや、お子様アニメやん。」言おうと思えば言える。けれどそんなことより、「すれ違って行く二人」という命題にここまで執拗にこだわり続けた新海誠が、誰もが無駄と思えるような、もうその命題については一通り考えたし、どうしようもないから次いこ、と通り過ぎてしまうような命題にこだわり続けた新海誠が、その執拗さの果てに、こんなに美しい、彼にしか描けない物語を紡ぎだした。その奇跡に一先ずは、涙を流していいはずだ。

 もっとも、僕の涙のもう一つの訳は聞かないでほしいが。

セーラー服とフランスパン

 最近、昼食が必要になると、実家から駅へ向かう途中にあるパン屋さんで買うようにしている。明太子を中に塗ったフランスパンがとても美味しいのだ。こんがりと焼け上がったフランスパンを一口かじると、ふんわりとしたパン生地の隙間から溶けたマーガリンと濃い味の明太子が染み入るように流れてくる。一本まるまる食べるのには顎の力が必要で、いつも最後の方はひいひい言いながら食べるのだけれど、次の日になるとまた食べたくなる。もしかしたら僕は、あと数年で何でも食べることのできる筋肉質な顎を持っているかもしれない。そしたらフライパンを食べて「パンはパンでも食べられないパンは」の反例を示してやろう。東京にフライパンを食べる大学生あり。よってこの命題(正確には、なぞなぞの答え)は「偽」である、と。(くだらない)

 そのパン屋さんではカウンターの後ろがパン工房になっていて、焼きあがり次第商品がそのまま並ぶことになっている。パンが焼き上がるとお決まりのフレーズが始まる。「◯◯パン焼きあがりました。いかがでしょうか〜?」と一人が言うと、「いかがでしょうか〜?」と全員で復唱するのだ。

 お昼時はかなりのペースで焼き上がるので、店員A「いかがでしょうか〜?」全員「いかがでしょうか〜?」の流れに少しばかりのマンネリズムが見えなくもない。もう、「いかがでしょうか〜?」と聞こえたら「いかがでしょうか〜?」と返せば良い、と各々が体にインプットして、半ば機械的にこなしているようにしか見えないのだ。もしここで「明治天皇、目いじってんのう。いかがでしょうか〜?」とでも僕が言えば「いかがでしょうか〜?」と復唱されるのだろうか。試してみたかった。胸は高鳴った。けれど、よく見ると(またよく聴くと)、店員は全て女性だったのである。男性がすんなり出すことのできない音域で「いかがでしょうか〜?」は行われていた。僕がその音域で「いかがでしょうか〜?」を投入した場合、かなり不自然な声色となるだろう。店員でもないやつが「いかがでしょうか〜?」を投入したと知れただけでも恥ずかしいのに、それが「明治天皇、目いじってんのう」という少しだけマイナーな、けれど決して公の場で放つべきではないような駄洒落の付随文句だとしれたら、僕の社会的立場は齢20にして終わってしまうのではないだろうか。

 この時漠然と思ったのである。僕が女だったら、と。

 

 そもそも前々から女になりたいと思う瞬間はあった。決して恒常的に思っているわけではないし、そもそも男でなかったらできなかったことが沢山あったから今更どうというわけではないのだけれど(だからジェンダーだのなんだのデリケートな話では全くなくて一つの妄想の延長なのだけれど)、女だったら…と考えることがある。

 何より思うのが「女子高生」になれた、ということだ。人生の一部分でも、「女子高生」に自分がなるというのは、一体どういう気持ちなのだろうか。

 僕にとって(そして恐らくは少なからずの男子にとって)、「女子高生」は一つの符号である。「女子高生」の髪が靡けば哀愁があり、「女子高生」が友達と話していれば秘密があり、笑っていれば希望があり、叫べば世界が変わり、そして走れば青春が始まる。これはアイドルがトイレには行かないとかそういった妄想と同じような幻想であるということは百も承知だけれど、でも、日本のアニメーションや漫画にどっぷりと浸かってきた人間からすると、「女子高生」は一つの符号として、一つの憧れの形のように見えてくる。それこそF1レーサーや、サッカー選手や、ウルトラマンと同じように。

 そしてまた、日本のアニメーションや漫画を見て育ってきた女性は少なからずいるはずだ。自分がその、テレビの中にいる「女子高生」となる日が来るのだということを、なった日があったということを、どのように受け取るのだろうか。実際の女子高生の多くは、有り体にいう「ドラマみたいな」青春劇に関わることなどないのだろう。もしかしたら女性たちの多くも、「女子高生、いいよね」と言っているのかもしれない。間違いなく言っているだろう。でも僕が言うのとはわけが違う。もし仮に僕が「女子高生、いいよね」と言われたら、「左様ですか、しかしながら小生はこのショーペンハウエルを読まなければいけないので、フムフム世界苦とはつまり…」とかしこまらなければいけない。他ならぬ女子高生に気持ち悪いと言われないために。

 

 すなわち、「時すでに遅し」である。