おなかが痛くなったら

 ああ、しまった、と思ったときには案の定もう遅くって、下唇を噛み、逆らうことなくそのままにしておいた。

 

 

 阿佐ヶ谷駅に用があり、1.2番線ホームで電車を待っていた。頭のなかでは図書館で借りることのできた川上弘美の小説のことを考えていたような気がする。そこからの繋がりでなんだか昨今の自分のことについても考えていて、心地よいって思ったときって全く心地よくないな、みたいな、反対ことばのじゃれあいみたいなことをしていた。

 そのあと、なかなか昼ごろの総武線はこないものだから、自然な形でイヤホンをつけることにした。半ば無意識に曲を選んだんだけれど、流していた音楽が1分、2分と進んでいくうちに、下唇を噛むようになって、気が付いたら目がなんだか熱くなっていて、おもわず自分に笑ってしまった。涙は溢れなかったけれど、向かいのホームからいまの自分の顔を見られたらふつうに嫌だし、なんでかなぁ、って思うくらいの不意打ちで、とにかくその場から離れようとホームの端、1号車乗り場まで歩いてみる。

 カネコアヤノのアルバムを最後まで聴いてなかったなぁ、と漠然と思って、最後の「祝日」という曲を聴いたのだった。なんだかどうしようもなく、21歳のぼくは21歳という流れの中にいるんだなぁ、と感じる。たとえばこういう、普段ちょっとふざけてマネをしていたような、同世代の表現をしている女の人の、本当に真摯な曲に不意打ちで目頭を熱くしてしまったときなんかに。病的なくらい格好つけたがりのぼくだから、ちょっとしたくやしさみたいなものを思ったりしながら。

 賢い素ぶりを磨いて、変に達観した風を装ってみても、大人でも読まないような難しい本を読んでみても、どうしようもない若さを抱えているみたい。全く、ねぇ、と思いながら、流れてくる歌に下唇を軽く噛むのだけれど、いくら噛んでも痛くなくって、思わず噛む力を強くしてしまう。するとまた、あきれてしまうようなほど、止められない暖かさが目を覆うように込み上げてくる。

 だからもう、逆らうことなくそのままにしておいた。

雑記@

 久しぶりにおスーツを着る。おスーツを着ると色々といつもと違うことが起こる

・首がしまる:かぶれたりする。さいあく。

・靴づれが気になる:固い革靴がくるぶしにあたる。歩くのがいやになる。

・街を歩くとちょっと格好つける:涼しげな顔をしたくなる自分。これがかなりさいあく。

・あつい:汗がくびもとにはびこる。さいあく。

・おとなっぽいねと言われる:これはまんざらでもない。

・「誰かと思った」といわれる:これは本当か?と思っちゃう。

・なんだかスイッチが入る:非日常スイッチがはいる。その分疲れる。

 

 久しぶりのおスーツ装着を終え家に帰ってきて布一枚になると、なんだか宇宙からかえってきた飛行士みたいに、地球の重力をいつもよりかんじて、たまらず寝込む。

 すっかり日の暮れた頃におきる。すきな本を読んで、ゆったりとしたアニメをみる。少しずつおスーツの名残りがなくなっていって、ようやくフランス語の参考書をひらくけれど、もうねる時間になっている。たくさん昼寝をしたのに、あれはおスーツ用と言わんばかり、しっかりとまぶたは重い。

 どうしよーなぁ、とくり返し呟く。

雑記。

 学校へ行くとちゅう、たまたま読んでいた小説に

 「長い時間をかけてハッタリだけの人間は淘汰されていく。」

 と書いてあって、とつぜんの不意打ちにびっくりする。あまりにびっくりして、講義に遅れ気味だったけれど、急ぎ足をやめる。

 びくびくは止まらずして、学校への道すがらイヤホンで音楽を聴こうにも、圧倒的なのうりょくを持った「トウタ」にやられそうでおびえる。兎にも角にもてきとうに一曲、とも思うが、それができない。

 

 「トウタ」という響きも、「淘汰」という漢字も、いかにもな感じで、こわいなあ、とおもいながら、学校帰り、学友(この間とはまた違う学友)と、小腹が空いたので駅ナカでとうふとたこ焼きを食べる。学友に「トウタ」の話をしようかと思ったけれど、鋭い指摘をする自慢の学友なので、「君は淘汰される側の人間だ」なんて言われたらちょっと立ち直れそうにないから、ひたすらに黙りこくって、冷たいとうふと熱々のたこ焼きを代わりばんこに食べる喜びをしかと味わう。

雑記、

 今日も日記を書きたいとおもったから書いてみる。三日坊主という言葉の効用は(誰もが知っているとおり)すさまじいので、今日がさいごの可能性が高い。

 すぐさま帰れる日だったけれど、変にそわそわした気持ちだったから、なんとなくそのままでは帰りたくなくて、学友と西荻窪から吉祥寺まであるいた。途中で案の定みちがわからなくなって、ちょっと怖いはなしをしてたこともあって二人して変に不安になって、遠くに見つけたコンビニエンスストアに、まるであかりに集まるむしみたいに駆け込む。

 迷いに迷ったすえ(甘いものが食べたい気もするけれど、もうすぐ晩ご飯だし、ああ、いっそアイスという手もあるけれど、なんかそれにしてはそとは寒いかなとも思うし……)、スターバックスのコーヒーとかが売っているあの「ストローを差す飲み物グループ」の場所にあった「バナナミルク」を買う。ふたりして、「バナナミルク」にする。

 いつのまにか暗くなっている歩道の隅、まばらに通りすぎる帰宅途中の人たちを横目に、ガードレールに腰かけて「バナナミルク」をストローで吸う。心地よい夜風とともに冷たさがのどを通る。ガードレールすれすれに通る車がまぶしいから立ち上がろうとするけれど、学友はまだおいしそうに「バナナミルク」をちゅうちゅうと吸っていて、だから仕方なくもう少しそのままでいることにする。

 でも不思議と、すぐに車のことは気にならなくなって、夜風と「バナナミルク」の涼しさだけが残ってくれた。

雑記

 お昼ごろ、吉祥寺の図書館で「背表紙を眺める会」をしてたらふと、日誌みたいなのを書きたくなって、どうせ続かないとわかっているのだけれど、どんどん書きたくなってたまらなくなったから、雑記という題名で書き始めてしまう。

 パソコンの前にかまえてみて、ふと思いついたのは昨日の話。

 朝はやくから10歳くらいの沢山の子どもたちと虫とりにいって、長くつでたくさん走って、疲れたけれどそれなりに虫も採れて、上々の気分で帰宅。虫は時間ができたときに標本にするから、それまで冷凍庫でしまってもらう(勿論容れ物に入れて)。母親は最初はぎょっとしていたけれど今はもう慣れていて、スムーズに虫収納スペースをつくってくれた。

 好き勝手気ままに虫を追いかけていたら、気づくと後に何人か子どもたちが付いてきていて、知らぬふりをして森の奥へ進んでいたんだけれど、いざすばしっこい蝶がとまってるのを見つけたときには、少年の肩を叩いて、「網を下に構えて、ゆっくり、音を立てないように、横からね、」と、熱心に教えを説いたりしちゃって、気がつけばそれなりに仲良しになったりした。

 「ホームパイ」を2個もらったら「食い意地」とあだ名をつけられる。10個も年下のくせして、中々いい言葉を知っているものである。ぼくはその日、甘んじて「食い意地」になった。

「おい食い意地!」

「ん?」

「早く行くぞ!」

「……おし、そいじゃ、いくかあ。」

うすい膜

何日も家の中にいたから、街いく人たちに対しても、なんだか恋しいような、そんなような気持ちになったりした。なんて、すこし言い過ぎだとは思うんだけどね。

ドアを開けるとやっぱり世界は一週間前と同じような感じでさ、決して歓迎してくれた、とかそういうわけじゃないんだけれど、それでもまるで元の場所に帰ってきたみたいに、街への一歩を前を向いて踏み出せたわたしは、ことの外良い気分だったりする。スニーカーの汚れも気になんなくて、太陽がほんのりと熱くする肌の温度だって、それでもいいと思えるような。

 

真夜中に聴くようなゆったりとした音楽を学校行く途中なんかに聴いていると、世界とわたしの間にもう一枚うすい、透明な膜ができたような気持ちになる。わたしはその膜に守られているからって、センチメンタルなことだとか、好きな人のことだとかを、こっそりと自分の部屋から持ち出して、移りゆく風景の中で想っていられる。それはひとりよがりと言われそうな、それでも少しは価値があるはず、って言えるような、未成熟だからこその一瞬間で、わたしは何でもないような昔の想い出の質感を、あめ玉を転がすようにうすい膜の中で愛でるんだ。

それこそが大事なんだよって、心の底の底の方で、しっかりと確かめるみたいに。

 

May

 嘘みたいに色付いてる夕焼け空を見たら沈んだ気持ちも晴れるかなとか思ったけれど全然ちっともそんなことはなくて、わたしのからだは世界中の重力の肩代わりをしているみたいにあいも変わらず重かったから、野球場の前にあるベンチにコートをまくら代わりにして寝転んでみた。気だるい意識の流れの中で脳は面白いくらいぐるぐると働いて、同じところを行ったり来たりしながら暗い場所にどんどん自分を落としていく「哲学もどき」を身勝手に振り回しちゃう。

 わたしを悩ませる何かは、それでも時間が経つと不思議なことに心地よい風通しを持ってきて、いつの間にか大事なことにふと思い至ることになる。透き通った海の中に落とした大切なものがコツンと海底に当たるみたいに。カレンダーに赤文字で書いた締め切りや逃げられない将来の不安なんかより、もっと近しいことがあって、それは自分の「哲学もどき」が語るところの「恋」ということらしくって、わたしの一生はそんな風に自分本意じゃなくなっていくみたい。そういうことっていつだって忘れちゃいないんだけれど、素直に感じるには時間がかかることだったりする。それこそ身近な人の優しさみたいに、じっとしていないと見えてこない都会の夜空の星みたいなもの。

 夕焼け空はどんどんと赤みを増していて、加工のしすぎたインスタグラムみたいな鮮やかさだったから、わたしはそれに圧されるように自転車にまたいで家へと帰ることにした。五月の始まりは今年もまたうだるような気だるさの中にあって、わたしは自転車のペダルを漕ぐことすらわずらわしくなって、右手を膝に置いて手の力を借りるように自転車を漕いでいく。

 

 商店街の明かりは夕焼けの赤にちっともかなわないし、シャッターの降りたお店だらけで人影なんて見えなかったから、小さな声で君の好きな唄を歌った。