フクラム国

タルイのブログです

サキ:たしかさと外国

 サキは、市民プールの見物席で外国の本を読んでいました。なんだか必死で何かをする必要がなくなった途端、何もかもどうでもよくなってしまった感じがして。

 本を丁寧に読む方法は、手をきちんと洗うこと。って友達に言ったら、うまく伝わらなかったのを思い出して、サキはお手洗いに向かって熱心に手を洗い始めます。

 別に反抗したいわけじゃないんだけれど、わかってくれない人がいると、やめることができないことってたくさんあるし、私はそうだと信じているってことを、きっと自分に、伝えたくなっちゃうんだろうな。

 本をパッと開いたときに、ひらがなが多いとちょっと甘い匂いがするし、フォントが少し薄くなっていて、文字の間隔がほんの少し空いていたりすると、どことなく優しい気持ちになって、時間が過ぎていくことを、大したこともないことのように思ってしまう。

 私が読む本が描く外国は、キラキラとした、まるで世界中の綺麗な虫だけを集めた図鑑みたいに、ああ、こんなのがあるんだ、って、楽しむようなものでは全然なくて、もっとそのままの生活の匂いとか、容赦のない国民の性格とかを写していて、それは時たま嫌になってしまったりするけれど、それでも私にはその「たしかさ」というものが、まるでラジオが特定の周波数を拾ってくれたときみたいに、嬉しい。

 サキはプールで遊ぶ親子連れを眺めて、真剣に泳いでいる自分より少し大きな人たちを眺めて、そして、両手を上げてせっせとウォーキングしてるおばあさんたちを目に止めて、「やっぱりはやく私は行かなきゃ」って、そんなことを思うのでした。

  でも私にはまだ、たくさんのことが整っていない。私の身体はもっと女の人らしくなっていくのだろうし、私の心もまた、もっと違うように、大切なことと大切じゃないことを分けられるようになっていくのだろう。

 だから胸が大きくなっていくのを、色んなことを忘れていくのを拒まないように、膝を丸めて、時間を忘れるようにして、サキは日の暮れるまで本を読み続けるのでした。

 本の書き出しはお決まりの、どこにでもあるような始まりで、だからこそ、ここにしかない終わりがあるように思えたりして、「やっぱり私は」って、古くから伝わる呪文を唱えるみたいに、静かに、大切なことを確かめるのでした。

ぼくらは夜のいきもの

最近はずっと雨が夕方辺りまで降っていて、今日もまた、湿度はむんむん気圧はひくひく髪の毛もじゃもじゃといった具合。

6月の気圧の低い日は、ほんらいはサンショウウオみたいに這って生活するべきなのに、無理をして、立って歩いてるんじゃないのか。そりゃ無理もするか、だって直立二足歩行はとっても進みやすいし、街の中で一人ぼっちのそのそと進むには、地面は固すぎるし、周りの目だって気になるし、講義に遅刻しちゃうかもしれないからね。

 

今日もまるで昨日みたいに、あと6時間くらいしたら夜が来るんだろうな。じゃあ今日も昨日と同じように、夜になって雨がやんで目が慣れてきた頃に、「ぼくたちは夜を求めて太陽の中で過ごしている、それなりに我慢強いイキモノだ」なんて、考えるんだろうか。ぼくはいつも、夜になって初めて、落ち着きとか、確かさとか、きちんとした重さで、少しだけ、感じられるように思うんだ。ちょっと感覚的すぎるかもだけどさ。

 

朝が怖いって思うときは、もしかしたら疲れちゃっているのかもしれない。人と会うこととか、何かをすることとかに。

でも、「そんな言い訳してないで」ってたくさんの人が言ってくれる、そんなような優しさをこの世界は、今はまだ持っているみたい。それでも少しこんな天気が続いただけで、こんなにも、どこかへいきたくなってしまう。すみません、少しだけ期待させるようなことをおこなってしまって。

 

ぼくは魔女と出会って、昼間だけサンショウウオになる魔法をかけてもらうんだ。すごい突飛な比喩だけど、わりとそのまま真面目にさ、そればっかりがぼくの夢なんだ。

白い背表紙の詩集の中から

それは湖だった。 

隠れ家の前に広がっていたもの。

君と隠れ家で出会ってから、僕はそこを留守にすることが多くなって、湖のホンカクテキな探検をはじめた。

君はその間家でどんな風に退屈を過ごしていたんだろうか。ソファーに寝転んで好きな詩を読んだり、鉛筆を唇と鼻の間に挟みながら空想の続きを考えたり、僕のダメになった原稿を紙飛行機にして飛ばしたり?

 

僕が湖の隅で見つけたのは人一人が通れるくらいの大きな穴で、どうやらそこからしょっぱい水が流れ込んで来ているらしかった。傷口に擦り込まれるような、冷たくて強くて、荒々しい液体が。

僕が隠れ家に帰る頃はちょうど夕暮れ時で、幸福は、月みたいにいつだってそこにあって、隠れているか出ているかだけなんだ、なんて、少しだけ悲しいことを考えたりする。

 

ねえ、僕たちが大切に「ここだけは大丈夫」と思ってきたこの場所も、実は海に続いているらしいよ。優しい人も怖い人もいる、好きな人も嫌いな人もいるあの場所に、繋がっているらしいよ。

僕たちが絶対に純粋だと思ってたあの湖にも、実は海水が混ざっているなんて、君は怒るかな、多分怒らないだろうな。実は今日おんなじことを考えてた、っていうかもしれないし、枕元に積まれている白い背表紙の詩集の中から遠くの国の人の詩を僕に紹介してくれるかもしれない。

 

隠れ家が、外の世界と繋がっているってこと、今なら不思議と、苦しいことじゃないような気がする。僕たちはここから、湖の穴から、あの海全体を好きになることが、もしかしたら、できるかもしれない。そんな風に思えたのは、たまたま夕暮れ時の風が肌に心地よかったからかもしれないけれど。

 

誰でも持っている感情に気がつかない人がいるように、誰にでも気がつかないだけで何か大切なものがあって、それが触れ合って傷ついたり、努力をして磨かれたりするのなら、誰の心だってきっと、大海原に流される孤島のような物語を密やかに持っているんだ。

そして僕らの隠れ家もまた、大海原に流されながら孤島のように存在しているとしたら、いよいよ夢みたいに語り合っていた未来の話も、ゲンジツテキになるのかもしれないね。

 

少しの間だけ感じたのは、昼間の月のような幸福。

もどかしさ

届けたいものがたくさんあるなんて

初めてみたいなことなのに。

フランス語の本を開くとわかる単語だけが浮かんでは消えた。目はもう疲れていて、そのくせ頭だけはギイギイとよくネジを巻く。

伝えたい気持ちは沢山のちりを積み重ねてできる、山の上でしか光ってはくれないみたい。

君が上手に撮った僕を、僕はまだ、思うように好きになれないし、自分の声も、自分の毎日も、うんざりとするくらい何かの手前で

 

届けたいものはきちんとここにある。

だけど、伝えられるまでにまだ距離がある。

どうしようもないその距離が、

せわしなくこの深い夜の中で、眠らせてはくれないんだ。

本当にどうしようもないことばかりなんだよ。

ねえ、僕はなんでまだこんなに若く幼い?

なんだか、なあ。

1秒でも早く白髪に染まればいいのに。

全部どうでもいいから、早く、早く早く。

焦っていいことないなんて分かってるけれども、だって、だってさ、君の口ずさむ歌の意味すら、僕はまだなにも分からないんだ。  

わかったふりをして一緒に歌ってはいるけれど、本当はなにも、まだ、どうしようもないくらい酷いんだ。

ジムとのかくれんぼ

 ジムはとても優しい子です。わからない人にはわからないかもしれないけれど。彼の優しさは、ものすごく純粋なものだから、大声で思っていることをすぐに口にしてしまったり、何かにいつも焦っているような人には、うまく感じることができません。だから他ならぬこのわたしも、最近まで彼の優しさを、忘れてしまっていたような気がします。

 ふと、「ひとりぼっちかもしれない」と思うとき、まるで帰り道のわからなくなってしまった草食動物みたいに、いいようのないむなしさの中に囲まれて、何もできずに佇む日が、人生の中で、それなりにあるような気がします。

 例えばそんな日に、ジムのつくった「ことばのない絵本」を開くと、真ん中より少し後のページに、深い森の中で、女の子が灰色の一角獣にもたれかかって寝ている一枚があって、わたしはその絵を見るたびに、思わず「よかった。」と、何か心が内側から暖かくなるような、そんな気持ちになるのです。

 ジムは星座の名前を言えないけれど、そのかわり、誰よりも星の光を感じることができて、だからこそ、美しさをとどめたままで、命を燃やし続けられるのだと思います。それこそまるで、遠くに燃える星のように。

 

 そうそう、ジムのお母さんもまた、とても優しい人です。お風呂からあがったジムに、毎日「早く寝なさい」と言ってくれます。お母さんはジムがこっそりと枕元で本を読んでいるのに、実は気づいているのです。

 ジムは布団で枕元の明かりを隠すようにおおって、布団の中で絵本を見るのが大好きでした。布団の中はどんどん熱くなってしまうので、一定時間ごとにバサバサと布団の中の空気を外に出す必要があります。明かりがその度に洩れているのをジムは気づいているのでしょうか。いいえ、多分気付いていないでしょう。なんで毎日お母さんが「早く寝なさい」と、何かを含ませるように言っているのか、理由に気づくにはまだ少し時間がかかりそうです。

 

 私たちが「明日はジムと会おう」と計画を立てて、意気揚々と街に出ても、彼とは決して会えません。彼は、計画、とか、時間通り、の世界にはいないのです。私たちが普段便利だと思って使っている「時間」は、彼とは無縁の場所にあって、ジムは、私たちには、ゆっくりすぎるように見えるカメと一緒に歩いて、時間の領域の外へ出てしまっているのです。彼と彼のお母さんの住む家は、大潮のときだけ現れる孤島への一本道みたいに、心に豊かなものがある時だけ、裏通りの片隅に現れます。ずっとあったみたいな感じで、ひょっこりと。

 

 普段歩いている道に潜んでいるたくさんの生き物のことを私たちが見つけられないように、きっと普段過ごしている中にも見つけられていない感情はたくさんあるのだと思います。「触れているけれど見えてないもの」というのがきっと至る所にあって、それは毎日のケチケチした時間の中で擦りきれるようにいなくなろうとしている。

 もしかしたら「触れているけれど見えてないもの」に気付けた時に、自分で独り占めをしようなんて思わずに、もっと大声で伝えてみれば、あの日一緒に遊んだジムと、もう一度会えるかもしれません。

 ジムとのかくれんぼはずっと続くのでしょう。わたしはふとした時に、彼のお茶目な帽子のつばが木から飛び出ているのを認めたりしたら、あたりも気にせず大声で、「みいつけた!」と、叫ぶことにします。

 ひょっこりと現れた彼は、きっと笑っていて、そんな時に、心の内側をじんわりと温めるものが、きっと、なによりの…。

うつりかわり

春が好きだと感じた途端、春の終わりばかりを想う

 

一番の大切を捨てて初めて、始まったような気がした18の頃

 

言いようもなく切ない

6月の半端な日

青い青い空が好き。

でも曇り空もまたいい

時々たいようが隠れるような

そんな半端な日もいい。

 

どうもたくさんの自分がいるみたいだ

少なくとも、

ぼくと、

僕と、

ボク、の三人くらいは

 

ぼくと僕とボクは、アジサイの花みたいに、

おんなじ名前で違う色をしてる

このアジサイが好きって人も

全部苦手って人も

どのアジサイも同じだよって人も

どうやらいるらしい

 

ねえねえ、一度咲いたら枯れるまでアジサイの色は変えられないんだって

僕らはずっと、ぼくと僕とボクのままってこと?

なんだか悲しいね。

頑張ったってダメってこと?

………うん。

………うん、

悲しいけれど、

うん、大丈夫だよ。

ひとつだけの花になろうと頑張らずにも

おんなじ名前で生きてゆける。

 

青い青い空が好き。
でも曇り空もまたいい
時々たいようが隠れるような
そんな半端な日もいい。

(少しだけ他人事みたいに)