雑記、

 今日も日記を書きたいとおもったから書いてみる。三日坊主という言葉の効用は(誰もが知っているとおり)すさまじいので、今日がさいごの可能性が高い。

 すぐさま帰れる日だったけれど、変にそわそわした気持ちだったから、なんとなくそのままでは帰りたくなくて、学友と西荻窪から吉祥寺まであるいた。途中で案の定みちがわからなくなって、ちょっと怖いはなしをしてたこともあって二人して変に不安になって、遠くに見つけたコンビニエンスストアに、まるであかりに集まるむしみたいに駆け込む。

 迷いに迷ったすえ(甘いものが食べたい気もするけれど、もうすぐ晩ご飯だし、ああ、いっそアイスという手もあるけれど、なんかそれにしてはそとは寒いかなとも思うし……)、スターバックスのコーヒーとかが売っているあの「ストローを差す飲み物グループ」の場所にあった「バナナミルク」を買う。ふたりして、「バナナミルク」にする。

 いつのまにか暗くなっている歩道の隅、まばらに通りすぎる帰宅途中の人たちを横目に、ガードレールに腰かけて「バナナミルク」をストローで吸う。心地よい夜風とともに冷たさがのどを通る。ガードレールすれすれに通る車がまぶしいから立ち上がろうとするけれど、学友はまだおいしそうに「バナナミルク」をちゅうちゅうと吸っていて、だから仕方なくもう少しそのままでいることにする。

 でも不思議と、すぐに車のことは気にならなくなって、夜風と「バナナミルク」の涼しさだけが残ってくれた。

雑記

 お昼ごろ、吉祥寺の図書館で「背表紙を眺める会」をしてたらふと、日誌みたいなのを書きたくなって、どうせ続かないとわかっているのだけれど、どんどん書きたくなってたまらなくなったから、雑記という題名で書き始めてしまう。

 パソコンの前にかまえてみて、ふと思いついたのは昨日の話。

 朝はやくから10歳くらいの沢山の子どもたちと虫とりにいって、長くつでたくさん走って、疲れたけれどそれなりに虫も採れて、上々の気分で帰宅。虫は時間ができたときに標本にするから、それまで冷凍庫でしまってもらう(勿論容れ物に入れて)。母親は最初はぎょっとしていたけれど今はもう慣れていて、スムーズに虫収納スペースをつくってくれた。

 好き勝手気ままに虫を追いかけていたら、気づくと後に何人か子どもたちが付いてきていて、知らぬふりをして森の奥へ進んでいたんだけれど、いざすばしっこい蝶がとまってるのを見つけたときには、少年の肩を叩いて、「網を下に構えて、ゆっくり、音を立てないように、横からね、」と、熱心に教えを説いたりしちゃって、気がつけばそれなりに仲良しになったりした。

 「ホームパイ」を2個もらったら「食い意地」とあだ名をつけられる。10個も年下のくせして、中々いい言葉を知っているものである。ぼくはその日、甘んじて「食い意地」になった。

「おい食い意地!」

「ん?」

「早く行くぞ!」

「……おし、そいじゃ、いくかあ。」

うすい膜

何日も家の中にいたから、街いく人たちに対しても、なんだか恋しいような、そんなような気持ちになったりした。なんて、すこし言い過ぎだとは思うんだけどね。

ドアを開けるとやっぱり世界は一週間前と同じような感じでさ、決して歓迎してくれた、とかそういうわけじゃないんだけれど、それでもまるで元の場所に帰ってきたみたいに、街への一歩を前を向いて踏み出せたわたしは、ことの外良い気分だったりする。スニーカーの汚れも気になんなくて、太陽がほんのりと熱くする肌の温度だって、それでもいいと思えるような。

 

真夜中に聴くようなゆったりとした音楽を学校行く途中なんかに聴いていると、世界とわたしの間にもう一枚うすい、透明な膜ができたような気持ちになる。わたしはその膜に守られているからって、センチメンタルなことだとか、好きな人のことだとかを、こっそりと自分の部屋から持ち出して、移りゆく風景の中で想っていられる。それはひとりよがりと言われそうな、それでも少しは価値があるはず、って言えるような、未成熟だからこその一瞬間で、わたしは何でもないような昔の想い出の質感を、あめ玉を転がすようにうすい膜の中で愛でるんだ。

それこそが大事なんだよって、心の底の底の方で、しっかりと確かめるみたいに。

 

May

 嘘みたいに色付いてる夕焼け空を見たら沈んだ気持ちも晴れるかなとか思ったけれど全然ちっともそんなことはなくて、わたしのからだは世界中の重力の肩代わりをしているみたいにあいも変わらず重かったから、野球場の前にあるベンチにコートをまくら代わりにして寝転んでみた。気だるい意識の流れの中で脳は面白いくらいぐるぐると働いて、同じところを行ったり来たりしながら暗い場所にどんどん自分を落としていく「哲学もどき」を身勝手に振り回しちゃう。

 わたしを悩ませる何かは、それでも時間が経つと不思議なことに心地よい風通しを持ってきて、いつの間にか大事なことにふと思い至ることになる。透き通った海の中に落とした大切なものがコツンと海底に当たるみたいに。カレンダーに赤文字で書いた締め切りや逃げられない将来の不安なんかより、もっと近しいことがあって、それは自分の「哲学もどき」が語るところの「恋」ということらしくって、わたしの一生はそんな風に自分本意じゃなくなっていくみたい。そういうことっていつだって忘れちゃいないんだけれど、素直に感じるには時間がかかることだったりする。それこそ身近な人の優しさみたいに、じっとしていないと見えてこない都会の夜空の星みたいなもの。

 夕焼け空はどんどんと赤みを増していて、加工のしすぎたインスタグラムみたいな鮮やかさだったから、わたしはそれに圧されるように自転車にまたいで家へと帰ることにした。五月の始まりは今年もまたうだるような気だるさの中にあって、わたしは自転車のペダルを漕ぐことすらわずらわしくなって、右手を膝に置いて手の力を借りるように自転車を漕いでいく。

 

 商店街の明かりは夕焼けの赤にちっともかなわないし、シャッターの降りたお店だらけで人影なんて見えなかったから、小さな声で君の好きな唄を歌った。

Forecost

 窓を開けると涼しくて、今年の春も例年みたいに夏日が多いなんて天気予報はいうけれど、わたしには肌に丁度良いくらいの朝だった。

 いざ身支度を整えて太陽の下に出ようと思うと、リュックサックが重たくていやになる。ロフトで散々えらんだデザインのそれも、重たさには敵わなくって、それでも教科書と装丁の綺麗な外国の本と、最近買ったメモ帳とお守りみたいに持ち歩いてる写真に背中を押されながら、あのちいさな学校へ。

 たくさんの人たちが無愛想に肩を触れ合いながら改札へ押し寄せていく中で、わたしは本当の自分みたいな、とっても曖昧な言葉で表すしかない「生きる意味」みたいなものを簡単に何処かに見失いながらも、たのしんで装着したイヤホンの、底抜けに明るいフォークソングに耳を澄ませてる。休みの日の空気、外国人の観光の空気、わたしより随分と遅めな歩調に合わせられずに、飛び跳ねるようにすり抜ける横一列で笑い合う人たちの顔。

 わたしはあとちょっとで着くあのこじんまりとした学校で、通り過ぎる知り合い達にいつも通りの挨拶をして、偉そうにしてるあの子をからかうような笑い声を大げさにあげてみたりするんだろう。

 朝は変われど毎日はいつのまにかおんなじような運動の中。きのうがあっておとといもあって、そして明日や今日が生まれていくはずなのに、カレンダーの数字は積み上がってるって感じじゃ全然なくって、何回も同じところを回ってたらいつのまにか位置がずれてたみたいな、そんな焦れったいほどゆったりとした毎日。

 

 夜になると余裕がないって思う今日みたいな日は間違えちゃった日。一人っきりで歌を歌う元気もないし、だれかに送るラインもないし、眠るにも頭が働きすぎるから、変に水を飲んでトイレに行ったり来たりして。

 ちょうどいい温度の朝、人見知りみたいな鳥の声、太陽が呼んでくるあの光が持つ安心感を待つともなく待ちながら、普段だったら観ないようなバラエティの動画をみたりして眠気を手探りで求めてる。

 暗い夜の中では、やっぱしどうしようもなく一人なんだな。いまでもそのことを忘れてしまったりしちゃう。その怖さを知ってるつもりでパジャマに着替えたはずだったし、その寂しさに助けられても来たはずなのに、気が付けばぱっちりと冴えた目と、バラエティに力なくにやける口元の後ろ、孤独を教える何かが迫ってきてるのを感じる。スマートフォンを持つ右手に疲れを覚えながら、心底歩調の遅い時計の針がイヤになって、ちっともありきたりな言葉しか言わない朝の天気予報をぼんやりと思い出す。

お姉さんとのさいごの夜

 海に面したそのこじんまりとした公園からは、坂の上にあるお姉さんの家の明かりを見ることができた。

「夜はやっぱしちょっと涼しいね」お姉さんが嬉しそうに言う。そよ風をもらってお姉さんの、薄手のシャツの首元が少しばかり動くのが見える。

 夏虫の声に耳を澄ませれば、その直線的な音の流れの間を縫うように波の音が僅かに聞こえた。お姉さんはブランコの周りを囲う手すりに腰を下ろして、「波の音が静かだね」と呟く。ぼくはなんだか、ようやっとお姉さんとの交点を見つけたような気持ちになった。

 ブランコに乗るぼくの姿をお姉さんは見ようともせず、ただ表情を夜風に預けたままにしている。ブランコは場違いなくらい速く動く。空中で止まる一瞬間も、素早く通り過ぎていくものだから、ぼくはなんだか"じかん"にだまされているような気持ちになる。

「この街を出ようと思うんだ」お姉さんは勢いよく立ち上がってそんなことを言った。夏の夜に時折吹く強い風が丁度その動作と重なるように吹き起こって、お姉さんの背中にせわしなくしわが揺れる。夜の中に淡く浮かぶその姿は、まるで夢の中の一景色みたいに、記憶に不思議な跡を残した。

 ブランコで大きな助走をつけ、手すりを越えるジャンプをするぼくに「おー」と声を上げて、お姉さんは小さな動きの拍手をした。大げさな無邪気さを受け入れるみたいに。

 「この街を出ようと思う」もう一度お姉さんはそんなことを言う。海を見るとさざ波が映った月を不確かなものにしていた。雰囲気にかまけてお姉さんの手を握ると、涼しい夜風のようにさらさらとした手の温度を感じる。

「歩こうよ」

 お姉さんがお姉さんである以上、ぼくはいつまでも子供のままで、そういう距離感をお姉さんもまた求めていた。だからぼくの方から手をつないで、海まで歩こうと強引に言える。

 お姉さんの家の明かりから遠ざかるように、公園の外に出て坂を下る。あの明かりの元でお姉さんのおじいちゃんは今日も静かにCDを聴いているのだろう。そんなことを思うとなぜか、ぼくは少しばかりお姉さんを引っ張る手の力を強くしたくなった。

 やがてたどり着いた海辺の防波堤で、お姉さんは大きく伸びをした。海は闇を混ぜ込んで何かを作っているみたいに波打っていて、月明かりだけが世界を薄暗くそこにあるものにしている。お姉さんがこの街を出て行ったら、ぼくは一段と大人になるのかもしれない。少なくとも今みたいに、甘えようとできる女の人が、街からいなくなってしまうのだ。

「うん、夜はちょっと涼しい」ぼくが言うと、お姉さんはやっぱり嬉しそうに笑う。

 ぼくはお姉さんと手をもう一度繋いで、公園へ戻ろう?って言おうとしたんだけれど、お姉さんが防波堤に座り込んでしまったものだから、慌ててぼくもその隣に座ることになってしまった。

 そうして2人でさざ波の中にいると、遠くにわずか、直線的な夏虫の声が聞こえてきた。

Waterland

 せかいをまたぐ時の気持ち

 今までのことがちっぽけだったって気づくと、落ち着く。まるで誰もいない湖をみつけたみたいに。

 せかいをまたいでから少し経つと、でもね、決まって、これからの毎日がつまらなく見えてくる。ジャンケンの4つ目を見つけちゃって、じゃあこの遊びはもうつまらないね、ってなるみたいに、授業を聞いたり、友だちにあったりするのもなんだか空しいような。グー、チョキ、パーで割り切れない何かを見なかったことになんて出来ないから、みんな何を真面目に話し合ってるんだろうって思ったり。

 低木に隠れた崖を下れば、さざ波をたてる湖がそこにはあって、わたしはなにかを取り戻したようなその景色の現れに自然と口元が緩んでいく。面積の小さい腕時計と節々を締め付けるような服を草陰に放って水の中に潜る。透明な水の底に映る太陽のきらめき、いつかどこかで感じたような、ゆったりとした懐かしさ。

 授業も友だちも空の向こう。いずれなくなる風景の中。水だけは相変わらずここにあって、私はせかいをまたぐ度に、まるで初めてみたいに湖の中へ潜るのだろう。

 水面から空を見上げたら雲が早く動いてる。帰らなくてもいいと言ってくれるのは、意地っ張りなわたしだけ。せっかちなのはよくみれば、わたし以外の全部みたいで、湖だけはいつだって変わらないのに、それでも何かに急かされるようにまた、腕時計を身につけることになるみたい。

 ゆったりとした懐かしさの中で、水の温度に肌が慣れていく。