11/23 祝日 メモ

嫌いな自分になっているときだけ無神経に自分を肯定したりして、数日後には白と白に挟まれてひっくり返って裏がわになってた部分があらわになるのもなんとなく分かるし、身動きなんてとれやしないんよ。

小説家でもないのに書きたかった物語があったりして、優しくて丁寧な、生活のことが書きたいなぁとか思ってた。シンガーでもないのに歌いたかった曲もあって、なんだかもう大丈夫だってことを、仲のいい人たちに伝えたくなったりしてた。

そういうの全部なくなって、ただ悲しいくらいに晴れた祝日が来て、僕は学校にぼんやりと向かいながら、剃り忘れたヒゲを触って今しか役にたたないようなつまらない考え事をしている。

こんな風なのが循環するのよね。小説家でもシンガーでも、花売りでも銀行員でも、とにかく何かが始まるまで、嘘みたいな秋晴れの終わるまで。

白くて馴染まない:押上

少し傾いているように見える、白い塔を見上げる。喫煙所で休憩している僕たちの前に東京スカイツリーは悠然と佇んでいた。押上駅から階段をビル4階ほどの高さまで登り、塔のふもとにようやっとたどり着いた頃、あたりには夕方が始まろうとしており、点々と浮かんでいる雲は桃色混じりのオレンジに染まっていて、僕は出る予定だった講義でいつも近くに座る後輩からの「来ないの〜?」という間の抜けたラインを、なんとなく返信しないままにしていた。

「どうも何か、迫られているような気がするんだよ」2本目の煙草を取り出しながら東川がそんなことを言う。

「いろんなことが僕に、何かを求めているような気がする。なんだか、決められた形に閉じ込められるみたいな気分なんだ」東川はため息のように煙を吐いた。

「そうな」工藤が同意しながら灰を落とす向こう側、喫煙所の外に、「私、煙は嫌い」と言わんばかり、灰色のワンピースを着た彼女が佇んでいるのが見えた。

「なんだかつい、言いたくなるんだよ。僕はお前らとは違うから、わかんないだろうけどね。みたいなことを」東川はそう言ってしまってから、「言わないけども」と、自分がたった今口にしたことを後悔するように付け足した。

しばらくの静寂のあと、「歩こうぜ」と、2本目を吸い終わった東川は勢いよく喫煙所を後にした。

彼は随分と早足で、かつ大股で歩いた。大柄の工藤は「寒くなってきたねぇ」と両手をポッケに入れながら、苦もなくそれに続く。「寒いねえ」と答える僕は彼ら2人に付いていくために意識的に歩幅を広げないといけなくて、ゆったりとした平日の雰囲気の中を、東川を先頭に、3人で風に前髪を掻き上げられながら横切っていった。

遠くまでよく見えるテラスが塔に隣接する商業施設に丁度隠れるような場所にあって、僕たちは人気のないその場所で手すりに両手を乗せ、見晴らしのいい景色をぼんやりと眺めた。夕方は段々と夜に変わりつつあって、我々はまるでその境目を目撃する為に遥々その場所まで辿り着いたちょっとした冒険者のようでもあった。

「なんかさ」僕は後ろのベンチに彼女が座っている気配を感じながら、彼らと彼女、双方に向けて話し始める。

「本当は自分がどうなりたいとか、どういうものが好きだとか、そういうの、全部、僕の中にはなくってさ、僕という存在はもっと、不確かで頼りないもので、はっきりとしたものは何一つなくて…」

「うん」と少し笑いながら東川が返す。普段あまり喋らない僕がそう言ったことを喋るのが面白いのだろう。

一方で工藤は頭に手を当てながら、なんとか言葉を紡ごうとしていた。

「…でも、何かで示して欲しいと思うよ。その存在を取り囲む、形があるように見せて欲しい。それが本当のことではなくっても、安心したいもの」

工藤のその言葉に、僕も東川も、すぐに反応することをせずに、水の中に落ちた新たな砂が鎮まるのを待つみたいに、しばらくの間、黙っていた。

ペプシ買ってくるわ」低い声で東川は随分と遠い場所にあったはずの自動販売機へ向かう。多分、彼は工藤の言ったことに、納得していないのだろう。東川は工藤よりも、正しさを求める人間だったから。けれど僕が何かを思っているのを察して、その場から去っていったのだ。

「僕がここにいる、ということだけは、いつもじゃなくていいけれど、どうにかして伝えられたら。って、調子のいい時は思えたりする」工藤が言う。

「僕の出会ってきた、大切な人たちに」

僕は背後のベンチに座る彼女の姿を認めて、その隣に腰を下ろす。「ねえ、私はおまえさんみたいになるために、どうしたらいいかな」確か夢の中で、彼女はそんなことを言っていた。

「ねえ、工藤。そういえば、僕はずっとお話を作ってきたよ。僕はずっと、文字を書いてきた。」工藤は振り返って、一瞬なんのことか、という表情を見せてから、お得意の大きな身振りで「そうな。」と笑った。

ふと、そよ風が吹いて、それに誘われるように、僕は隣の彼女と目が合う。その顔は色んな女の人たちを思い起こさせる。僕を嫌いさせてしまった人たちのことも、気にかけてくれる人たちのことも、大切な人のことも。

その日、彼女の夢をみた次の日、白くて馴染まない塔のふもとに僕たちはいた。そこには工藤がいて、東川もいて、夢で見た彼女もまた、僕のそばにいた。暗くなっていく空の向こうに、ビル街が点滅させる赤い点が光っているのが見えた。僕たちの学校も、降りていく暗闇の中で見えなくなっているけれど、確かにそこにあるのが分かる。髪の毛の間をすり抜けるような風が吹いて、僕はその場所で、精一杯に息を吸うことができた。

東川が帰ってくる。早足で、風を切るように。彼は僕と工藤の姿を認めて、「ここは静かでいいなあ」と叫んだ。

「そうな」工藤が笑いながら同意する。

僕も二人につられて小さく笑いながら、まるで今しがた何かが始まったかのように、いつのまにか1人だけで座っていたベンチから、ゆっくりと腰をあげた。……

白くて馴染まない:喫煙所

「11月は、ドイツでは、寂しい月なんです」60歳前後の男性教授はドイツの祝日を説明しながらそんなことを呟く。難しい言葉を使って繰り広げられる講義の大部分はうまく頭に入ってこなくて、とりあえずホワイトボードに書かれたキーワードたちをプリントの端っこにメモするという位だったけれど、講義の始まりの挨拶として発せられた教授のそんな一言だけが、まるで美しい音楽が流れた映画のワンシーンみたいに、記憶の奥底の方に跡を残した。

東川と工藤に会ったのは講義が終わった後のことで、喫煙所となっている本校舎裏のウッドデッキで寝転がっている時だった。その場所は学校で唯一と言っていいくらい静かな場所で、おまけに(東川や工藤を除いて)見知った人々と会う確率の少ない所だったから、僕はトートバックにいれた上着のパーカーと単行本を枕に、所々黄色がかっている木の葉が風にちろりちろりと揺れるのを眺めながら、夕方過ぎから行われる次の講義までの時間を、何の気なしに仰向けになって潰していたのであった。

「あれ?」という少しばかりおちょくっているような声に反応して、うつろな目のまま身を起こすと

「火持ってない?」と、東川が隣に座り込みながら工藤へと片手を伸ばしていた。

「ある、ある」工藤も胸ポケットからジッポ・ライターを取り出しつつ、僕の隣へと座る。僕はなんだか狭い部屋から抜け出でたような心地良さを感じながら、彼らのしゃべる事柄に耳を傾けて、笑ったり、頷いたりした。東川は小さな声でよくしゃべった。工藤はそれに大きくゆったりとした声で反応し、お返しに自分の話をする。最近観た面白いドキュメンタリーの話、美味しい食べ物の話、音楽の話。……

「散歩に行こうよ」会話が一通り終わったあとの、少しの静寂の中で東川がつぶやいた。「いいねえ」工藤が名案とでも言うかのように目を細めながら大きな声を出したのに合わせて、「行きますかね」と自分もつぶやく。東川は忙しなさげに煙草の火を消すと、「久しぶりに晴れているし」と立ち上がる。工藤はいち早く歩きたがっている東川に、気付いていないのか、あるいは、気付いていないふりをしているのか、大層ゆっくりと、美味そうに煙草を吸っていた。僕はそんな二人を認めながら、ゆっくりとトートバックに入れておいた上着を着込む。

「あそこまで行こうか」学校前の通りを歩きながら工藤は前方遠くに見える白い塔を指差した。まるで富士山を目印に富山県を目指す気ままなドライブみたいに、我々は散歩の目的地として、浅草方面にそびえ立つ東京スカイツリーを設定したのであった。

スカイツリーってさ、出来てからしばらく経つけど、浮いてるよね、街並みから」工藤が不可解な謎に眉をひそめる名探偵のような口調で言う。

「東京タワーと比べてしまうとねえ。あれはなんだか、もう古き良き東京の象徴としての、市民権みたいなものを得ている気がする」

「あの暖かい色合いも、ね」東川に付け足すように色彩のことを言った僕に工藤は大きく反応して、「そう、なんか白すぎて、馴染んでないんだよね」と言った。

「ははは」

どこからか聞こえてきたその笑い声は、他ならぬ、夢と通学途中に出会った女性のもので、僕は忘れていた彼女のことを、はっきりと思い出す。

「白すぎて、馴染んでないんだよね」彼女はその言葉を楽しそうに繰り返している。

勿論というべきか、当然のごとく、他の二人には、その声はちっとも聞こえていないようだった。

白くて馴染まない:総武線、上野公園

市ヶ谷駅を過ぎたあたりだっただろうか、いつも背後に伸びている影みたく、「忘れていただけでいつもそこにあったのだ」と言わんばかりに、夢の中の彼女が姿を現した。

「ねえ、外国に行きたいって、前に言ってたじゃない?」彼女は夢と同じ服装のまま、僕の隣で、もたれかかるようにつり革にぶら下がっている。

「うん、言ってた」

「今はそういう気持ちはないの?つまりこう、どこか別の世界へ、行ってしまいたいというような」

「…そういう気持ちは、なくなったりするものじゃないような気がする。時期によって、薄まったり、濃くなったりするかもしれないけれど。誰もが、ここではないどこかのことを、願望として、思い描いたりするはずだよ」

「うん、私の言いたいのはさ、えっと、「誰もが」とか、そういうことじゃなくて。おまえさんは、本来海の向こうの世界で生きるべき人なんじゃないかってこと。つまり、今までが全部準備でさ、向こうへと旅立ってから、おまえさんの本番が始まる、というような」

「…どうだろう。生きるべき場所、なんてものが、僕にあるんだろうか」

 

多国籍の言語が飛び交う秋葉原駅で電車を乗り換える。乗り換えのために階段やホームを歩いている内は見当たらなかったけれど、山手線に乗り込むとすぐ、僕をのぞき込むように見る彼女の姿が車窓に映るのを認めた。

「だって、おまえさんは海の向こうの国の音楽ばかり聴いているじゃない」

「そんなでもないよ」

「絵画も、映画も、本だって」

「…まあ、うん。多分でも、みんな、そうなんじゃないかな」

「ううん、みんなとおまえさんはだって、全然違うじゃない」…

上野駅は改札をでるとそのまま公園へと繋がっていて、僕は喧噪の多い公園内を通って学校へと向かうのではなく、公園を避けて、その枠をなぞるように歩く道筋を選択する。そちらの道を歩く学生は極めて少ないし、おそらく、歩く距離的にもそれは遠回りの通路なのだとは思うのだけれど、それでも人ごみに感じる疲労感をそれなりに疎んでいたから、基本的にそちらを選ぶことにしていた。

「ほら、やっぱり」楽しそうに彼女は言う。「おまえさんは違う」

「違うか違わないかなんて、どうでもいいことのように思えるよ」

僕は少しだけ語気を強くして言ってみる。それを聞いた彼女は怖がったのか楽しんでいるのか、カーディガンのボタンを外してそれを翼のように靡かせながら走り去っていった。まるで13歳くらいの少女みたいに。僕は彼女がどこかへいなくなっていくのを認めながら、卒業単位のために必要なだけの講義へと、ゆっくりと足を運ぶ。

白くて馴染まない:小田急バス

僕はその日バスに揺られながら、夢のことを考えていた。自分が将来に向けて持っている夢、のことではなくて、つい昨日の眠りの中でみた、夢のことをである。

……その夢の中で僕は、知らない女性と手をつないで歩いていた。人の気配のない一本の長い道を、ゆったりと。あの道は毎年夏休みに帰る、田舎の田んぼ道に似ている。それがどこかに向かっている途中なのか、どこかからの帰り道なのか、何も分からないまま、僕と彼女はその道を歩いていた。

彼女は僕の肩くらいの背で、顔立ちだけをみれば、高校生かと思えるようなあどけなさがあった。けれど、彼女の僕を見る時の慣れきった、それでいて少し見下したような目線であったりだとか、友人とも恋人とも、家族とも、少しばかり似ていて、けれど根本的になにか違う、彼女が醸し出す奇妙な雰囲気のことを思うと、年齢や、人物像などを、はっきりとさせることはとても出来そうになかった。たわみのある灰色のワンピースに薄地の白いカーディガンという身なりで、彼女は僕と、そうすることが当たり前みたいに手をつないでいる。

そういえば、夜に"なりたて"くらいの時刻だったな、僕は移り変わる車窓の景色をぼうっと認めながらそんなことを思い出す。道の両脇に広がる田んぼの緑や薄ピンク色のめだつ彼女の肌、控えめな赤さの唇、全てに水で溶かした藍色を被せているような、そんな色合いの時刻だった。

電車の止まる街へと向かうバスの中、もう一文字違えず憶えた車内のアナウンスを頭の中で転がしながら、彼女との会話が呼び起こされてくる。

「おまえさん」彼女は僕のことをそんな風に呼んだ。

「ん?」僕は取り繕ったような声を出す。

「おまえさんが思ってるほど、みんながみんな、優しくないかもしれないじゃない?」

「そんなに誰も彼も、優しい人だなんて、思っちゃいないよ」

「そう。…ねえ、私はおまえさんみたいになるために、どうしたらいいかな」

「…どうだろう。なんだか、今までのことをうまく思い出せないんだ」…

僕とはちがう私のかたち:そしてまた、朝

台所でちろちろと落ちる水をグラスへと汲んで、ベランダに出て外を眺めていると、車の少ない大通りと、布団の干してある斜向かいの家が見えます。活動的な両親は風邪気味のわたしをおいて何処かの街へ行ってしまいました。風で揺れるカーテンだけが部屋の中で動く、もの静かな日曜日です。

あの日鎖骨のあたりに刻まれた傷は、今はもうかさぶたになってきていて、所によっては、剥がれて跡形もなくなっています。けれど、まだ少し残っている赤色の細い線は、恍惚さと、恐怖とを、同時に呼び起こすのに十分な力を持っていて、その傷を見るたびにわたしは、今までのような形で、もう進んでいくことは、少なくとも今は、するつもりにはなれない、と感じます。自分の中にある「何か」を信じて前へ進んでいく、というような無邪気さは、あの夜に知った、自分の中にその「何か」があるという事実によって、損なわれてしまったようです。

わたしは自家製のエンジンを使って自らを運ぶ流れに逆らうことに、価値を感じることが、今はもう、ない。街中を歩いていれば、完成しなかったわたしの鎖骨あたりの「印」を目ざとくみつけた、強大な魔力を持った人間に声をかけられて、また、あの夜のような世界へ誘われるかもしれない。あちら側の世界が、襲ってくるかもしれない。その時、わたしは、あの日感じた恐怖も忘れて、また恍惚とした気持ちになり、そちらへと揺られていってしまうでしょう。けれど、その時わたしに働くのは、「僕が僕である」ということのために本物であろうとする力ではなく、わたしの記憶が生む、波紋の揺らぎだけなのです。だからわたしはまた、こちらへと還ってこられる。視界の奪われた海の中で、テトラポッドにたどり着くことができる。

これから船はどこへ行くのでしょう。エンジンも、すぐれた帆も持たなければ、オールすらないような船。けれど、「僕」だったころのわたしが、これからのわたしの形を紡いでいくとするならば、思い出にゆっくりと浸りながら、わたしは日曜日の朝のような落ち着きを、心にもつことができるのです。

これからの広がりを、どこまでも感じることができるから。

僕とはちがう私のかたち:深く黒い海(下)

”見える?”

姿の見えないその存在は、まず、そう尋ねました。あたりを取り巻いていたぎょろりとした目の魚たちは、そこにある何か触れてはならないものに畏怖しているかのように、僕の周囲から遠のき、静かにしています。目の前には、ただ、テトラポッドの上で感じたあの魔法を強めたような、うねりのある、あでやかな空間の揺らぎがあり、僕はその魔力をありありと感じることができました。

”わたしが、見える?”

その存在からは、沢山の女の人のの声が同時に聞こえてきます。音の高さもニュアンスも、確かなものとして判断できることは何一つなく、ただその声が数多の女声によって成り立っているのだ、ということだけが、僕にわかることでした。

(見えません。けれど、あなたのことを感じることができます)僕は心の中でそう返します。

”君はこちら側を、見えないけれど感じている”

(はい。)

”君は本物であろうとしている。例えば、こんな風に”

その声の余韻に生まれた音楽のような響きは、ぼくの体の中にしんみりと浸み込んでゆきました。それは僕を愛撫し、やがて絡み合い、恍惚とした感情を呼び起こしました。

”あなたは正しさを持っている”

その声は優しく言います。”だから此処にきたのでしょう”

あったのだ。僕はそう思いました。僕の正しいと信じてきた僕の中の「ほんとう」は、やっぱりあったのだ。

”おいで”

女の人の声は言いました。僕は自分の首筋から肩のあたりを暖かな何かが、いくぶん官能的に触っているのを感じました。それから、左の鎖骨あたりへ痛みを覚えました。見ると、そこに、細い線の切り傷が、ゆっくりと、生まれているのです。その光景は、いつか映画で観た、刺青を彫るシーンとよく似ていました。ゆっくりと、僕の左胸と鎖骨の間あたりに、何かが、刻まれていくのです。血は海にタバコの煙のように漂っていきます。僕は恍惚としたままそれをぼんやりと眺めていました。

”君はこちら側を見ることで、本物になる”

(ほんもの…)

僕は魚たちの騒音を思い出しながら、海中を漂う自分の血をぼんやりと眺めていました。あれ、僕はなんで、本物にならなければならないのだっけ…。

そう思った時でした。ゆっくり、しかし確実に模様を描いていた、傷の動きがピタッと止まったのです。瞬間的にその場全体の空気が極端に張り詰めたのを僕は感じました。恍惚とした感情は一気に何処かへ行ってしまって、代わりに、血の気が引くような寒気と、それによって取り戻された冷静さが僕を捉えました。

僕はもがくように、その存在を振り払うように、バタバタと、滑稽なほど真剣に身体をうねらせると、海面に向かって両手で水を掻き分けていきました。背後からは魚たちの騒音が再び響いています。息が苦しくなるのを感じました。水温の冷たさも、目に沁みる海水の暴力的な痛みも、みるみるうちに身体へ帰ってきて、ただ生きることだけを求めるように、僕は海面を目指しました。

"… い……ら…ば…"

あの存在が背後で何かを呟いていました。けれどそれは、幸運なことに、というべきでしょうか、はっきりとは聞こえなかったのです。しかしながら、それはかえって、僕の背筋に、いまも続く戦慄を、走らせているのでした。

海面へ顔を出すと、視界が海水にやられてしまっていた僕は、いくら周囲を見渡そうとしても、はっきりとしたものは何一つ見つけることができず、ただ、ぼんやりと明るさのある方面にめがけて、もがくように泳ぎました。あの時はただ、明かりに向かって進むことだけを考えていましたけれど、今振り返ると、僕の生命はその時、運の良さというただの偶然によって紡がれただけの、ひどく不安定なものでありました。

僕は手の先に固いものが当たるのを感じ、それに両腕を回して身体をゆっくりと引き上げました。服に染み込んだ海水の非情な重さを感じながら、力を振り絞るようにして、僕はテトラポッドの上へと、戻ることができたのです。……