フクラム国

タルイのブログです

もどかしさ

届けたいものがたくさんあるなんて

初めてみたいなことなのに。

フランス語の本を開くとわかる単語だけが浮かんでは消えた。目はもう疲れていて、そのくせ頭だけはギイギイとよくネジを巻く。

伝えたい気持ちは沢山のちりを積み重ねてできる、山の上でしか光ってはくれないみたい。

君が上手に撮った僕を、僕はまだ、思うように好きになれないし、自分の声も、自分の毎日も、うんざりとするくらい何かの手前で

 

届けたいものはきちんとここにある。

だけど、伝えられるまでにまだ距離がある。

どうしようもないその距離が、

せわしなくこの深い夜の中で、眠らせてはくれないんだ。

本当にどうしようもないことばかりなんだよ。

ねえ、僕はなんでまだこんなに若く幼い?

なんだか、なあ。

1秒でも早く白髪に染まればいいのに。

全部どうでもいいから、早く、早く早く。

焦っていいことないなんて分かってるけれども、だって、だってさ、君の口ずさむ歌の意味すら、僕はまだなにも分からないんだ。  

わかったふりをして一緒に歌ってはいるけれど、本当はなにも、まだ、どうしようもないくらい酷いんだ。

ジムとのかくれんぼ

 ジムはとても優しい子です。わからない人にはわからないかもしれないけれど。彼の優しさは、ものすごく純粋なものだから、大声で思っていることをすぐに口にしてしまったり、何かにいつも焦っているような人には、うまく感じることができません。だから他ならぬこのわたしも、最近まで彼の優しさを、忘れてしまっていたような気がします。

 ふと、「ひとりぼっちかもしれない」と思うとき、まるで帰り道のわからなくなってしまった草食動物みたいに、いいようのないむなしさの中に囲まれて、何もできずに佇む日が、人生の中で、それなりにあるような気がします。

 例えばそんな日に、ジムのつくった「ことばのない絵本」を開くと、真ん中より少し後のページに、深い森の中で、女の子が灰色の一角獣にもたれかかって寝ている一枚があって、わたしはその絵を見るたびに、思わず「よかった。」と、何か心が内側から暖かくなるような、そんな気持ちになるのです。

 ジムは星座の名前を言えないけれど、そのかわり、誰よりも星の光を感じることができて、だからこそ、美しさをとどめたままで、命を燃やし続けられるのだと思います。それこそまるで、遠くに燃える星のように。

 

 そうそう、ジムのお母さんもまた、とても優しい人です。お風呂からあがったジムに、毎日「早く寝なさい」と言ってくれます。お母さんはジムがこっそりと枕元で本を読んでいるのに、実は気づいているのです。

 ジムは布団で枕元の明かりを隠すようにおおって、布団の中で絵本を見るのが大好きでした。布団の中はどんどん熱くなってしまうので、一定時間ごとにバサバサと布団の中の空気を外に出す必要があります。明かりがその度に洩れているのをジムは気づいているのでしょうか。いいえ、多分気付いていないでしょう。なんで毎日お母さんが「早く寝なさい」と、何かを含ませるように言っているのか、理由に気づくにはまだ少し時間がかかりそうです。

 

 私たちが「明日はジムと会おう」と計画を立てて、意気揚々と街に出ても、彼とは決して会えません。彼は、計画、とか、時間通り、の世界にはいないのです。私たちが普段便利だと思って使っている「時間」は、彼とは無縁の場所にあって、ジムは、私たちには、ゆっくりすぎるように見えるカメと一緒に歩いて、時間の領域の外へ出てしまっているのです。彼と彼のお母さんの住む家は、大潮のときだけ現れる孤島への一本道みたいに、心に豊かなものがある時だけ、裏通りの片隅に現れます。ずっとあったみたいな感じで、ひょっこりと。

 

 普段歩いている道に潜んでいるたくさんの生き物のことを私たちが見つけられないように、きっと普段過ごしている中にも見つけられていない感情はたくさんあるのだと思います。「触れているけれど見えてないもの」というのがきっと至る所にあって、それは毎日のケチケチした時間の中で擦りきれるようにいなくなろうとしている。

 もしかしたら「触れているけれど見えてないもの」に気付けた時に、自分で独り占めをしようなんて思わずに、もっと大声で伝えてみれば、あの日一緒に遊んだジムと、もう一度会えるかもしれません。

 ジムとのかくれんぼはずっと続くのでしょう。わたしはふとした時に、彼のお茶目な帽子のつばが木から飛び出ているのを認めたりしたら、あたりも気にせず大声で、「みいつけた!」と、叫ぶことにします。

 ひょっこりと現れた彼は、きっと笑っていて、そんな時に、心の内側をじんわりと温めるものが、きっと、なによりの…。

うつりかわり

春が好きだと感じた途端、春の終わりばかりを想う

 

一番の大切を捨てて初めて、始まったような気がした18の頃

 

言いようもなく切ない

6月の半端な日

青い青い空が好き。

でも曇り空もまたいい

時々たいようが隠れるような

そんな半端な日もいい。

 

どうもたくさんの自分がいるみたいだ

少なくとも、

ぼくと、

僕と、

ボク、の三人くらいは

 

ぼくと僕とボクは、アジサイの花みたいに、

おんなじ名前で違う色をしてる

このアジサイが好きって人も

全部苦手って人も

どのアジサイも同じだよって人も

どうやらいるらしい

 

ねえねえ、一度咲いたら枯れるまでアジサイの色は変えられないんだって

僕らはずっと、ぼくと僕とボクのままってこと?

なんだか悲しいね。

頑張ったってダメってこと?

………うん。

………うん、

悲しいけれど、

うん、大丈夫だよ。

ひとつだけの花になろうと頑張らずにも

おんなじ名前で生きてゆける。

 

青い青い空が好き。
でも曇り空もまたいい
時々たいようが隠れるような
そんな半端な日もいい。

(少しだけ他人事みたいに)

不自由なことば

ことばでは話せないこと

遠い未来のこと

ことばでは話せないこと

忘れてしまった音楽のこと

 

ことばなんて

きっと全部 たりない。

 

ことばでは話せないこと

周りと違う私の気持ち

ことばでは話せないこと

一人ぼっちの夜の冷たさ

 

ことばなんて

きっと全部 たりない。

 

ことばで話せるかもしれないこと

私が見つけたきらきらのこと

ことばで話せるかもしれないこと

思い出に包んでいた音楽のこと

 

でもきっとことばなんて

やっぱり全部 たりないんだ。

 

ことばではずっと話せないこと

私があたためている夢のこと

 

ことばではずっと話せないこと

大切なあの人と、この場所で出会えた時のこと。

井の頭公園13:30

人は分かりやすくするための決めごとを長年かけて作ってきた。けれど自然は自然と混沌としていて、そんなものの中に、分かりやすく線を引いた分だけ、世界は矛盾だらけになってしまった。

蔓延する矛盾と自分との折り合いをつけていくことがアイデンテイテイの確立とかオトナへの一歩とか、そういう言葉で表されるとするなら、「早熟」こそ最高の褒め言葉であって、僕らは一刻も早く「大人びてるねぇ」の名の下に、世界の矛盾に対して個人的な感慨を巡らせては、周りから変人と謳われながら人間として価値のある今世を守る必要があるのだろう。一週目、二週目、三週目、と矛盾を回りながら。

 

そんなことを邪悪な科学者をしている友人のブログから徒然なるままに考えるくらいには今よくわからない時間を過ごしている。

高円寺で土地の神をしている友人の自転車を停めていた駐輪場から過剰な請求額を言われてしぶしぶ野口を失った挙句両輪パンクしている友人のそれを自転車屋で直してもらっているところだけれど、多分あれはチューブごと取り替えることになるくらいボロボロだったから5000円弱かかるのだろう。大体僕が終電で帰るというのを力で阻止して自分の自転車で帰れと家まで連れて行った挙句自転車が両輪パンクしていてそれでも徒歩よりはマシだと両輪パンクしたそれで吉祥寺まで午前2時半の街を走らせる奴を僕は友人とは呼びたくない。「僕なりの愛ですよ」ともしかしたら言うのかもしれないけれど。僕が図書館でエターナルシュレッダーをして稼いだお金は一体どうしてこんな風にして、とまあ、友人からパンクのお金は貰うけれども、使い果たされてしまうのだろうと思うし、一体どうしてこんな風な足止めを僕はくらっているのだろう。といっても僕がこれから何をしにいくのかといえば、ロマンティック・リアリストとの打ち合わせと言う名の暇つぶしであって、これもまた無駄な浪費と世間に言われたりするらしい。

 

14時には修理が終わるとのことで、井の頭公園のベンチに座っていると、何かの幼虫がまさに蛹になりかけているところで、あれ、この虫の名前はなんていうんだっけと、そんなことを思う。

土地の神からは返信がこなくて、彼の家なんてどこにあるのか完璧に忘れているから、やもするとあの自転車は高円寺の名前のない神社に放っておくのが良いかと思う。適当に処分して欲しいし、なんなら長ったらしい祭事にでも活用して欲しい。

 

それにしても忙しいという言葉とは随分遠くに来たつもりがしていたのに、あいも変わらず、誰かに嫌われながらも、誰かのために忙しくなることを拒めないようで、そんな自分の部分を一概に短所だとは思わないけれど、どうもこうもどかしい。科学者や土地の神や或いはロマンティック・リアリストとの、時間と金だけが意味も価値も何もなく消えていく、全世界的に見て堕落していくばかりの毎日があって初めて、僕の人生もそれなりに面白いのかもしれないと、思えたりするからだ。

いや、彼らは間違いなくある種の悪魔であるとぼくは断言してはばからないけれども

エターナルシュレッダー中のメモ

愛の教科書がもしあったら、きっと中身を冷めた笑いでパラパラ見ながら、結局は破いて捨てる気がするけれど、それでも「これが恋だ」とか、「それが愛だよ」とか、そんな風に、自分の気持ちを整理したくなる人はたくさんいるだろうから、やっぱりどこかで、そういった指南書を求めているようにも思う。

 

言葉には二種類あって、そのうち一種類が90パーセント以上を占めている気がする。それというのは区切るという役割を持った言葉で、混沌とした何かを、きっちりとした囲いの中に入れ込んで、人に伝わるようにしてくれるものだ。頭のいいと言われる人がたくさんいるけれど、そういう人は基本的に、言葉という囲いを作るのが上手くて、人にきちんと言葉を伝えられる人だったりする。

もう一種類ははっきりとしないものなんだけれど、いうならば、芸術表現としての言葉というようなものである。この世界のごく少数の人は、言葉を使うことによって、意味を広げていく、囲いを溶かしていく、或いは、どんな事をしても届かなかった曖昧な場所に通ずる道を作ることができる。上手く言えないけれど、本物の作家や詩人はそんな風にして、言葉を、なにかを決めるためでなく、音や絵の具と同じように、なにかを広げ、深めるために使うことができる。

 

僕は正直なところ、狂おしいくらい後者の言葉を使う人間になりたいし、今世はそのために使いきってしまいたいと(決して格好付けとかではなく、一種の諦めとして)思っているから、やっぱり「これは恋だ」なんて、なにかを決めつけるように、混沌とした人への想いを整理してしまいたくはないと思う。

 

愛の教科書は絶対に、実在はしなくともイメージとして存在していて、まるで書かれている順序で結婚というゴールに向かうために、僕らの恋愛は消費されているような気がします。

イニシエーション・ラブ」という小説があるように、結婚への、通過儀礼(イニシエーション)として複数の人とお付き合いする経験があるんだ、なんて、心のどこかでやっぱり20歳の若者として思ってしまう節があるし、一生の愛を誓うよ、なんてセリフを今の僕が言おうものなら風にのってアメリカくらいまで飛んでいってしまうくらいには重さがないのは確かで。

 

いまこういう中3みたいなことを考えているというのが、一番大切なのかもしれない、というか、それだけが少し意味のあることなのかもしれないけれども。

バイトでずっと無心にシュレッダーをかけながら、ぼんやりと考えることにしては、随分と明るくて、5月も終わりだから?なんて、ヘタな芝居をうってみる。